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旧町名&電力プレート 東京都荒川区三河島町

今回は荒川区の旧町名「三河島町」を紹介しよう。

調べてみたら、荒川区の旧町名の紹介は今回が初だった。

 

荒川区は旧町名がとても少ない区で有名だ。

有名かどうかは知らんけど。

尾久町、三河島町、日暮里町南千住町の4つだけ。(町屋と荒川は現行町名と同じなので対象外。)

結果的に投稿が少なくなってしまうのは、必然だった。

 

①東京都荒川区三河島町三ノ二八六八

発見日  2020年6月29日

発見場所 東京都荒川区荒川三丁目

 

ミカワ7-28

発見日  2021年9月7日

発見場所 東京都荒川区荒川六丁目

この電力プレートは「三河島町」時代のものと思われる。

 

歴史

1889年(明治22年)5月1日
町村制の施行に伴い、町屋村の全域と、以下の3村の各一部が合併して三河島村が発足(カッコ内は残部の編入先)。
三河島村(南千住町
千住南組(南千住町
三ノ輪村(東京市下谷区南千住町

1920年大正9年)2月11日
三河島村が町制施行して三河島町となる。

1932年(昭和7年)10月1日
北豊島郡の全域が東京市編入される。三河島町の区域は荒川区となり、「三河島町」は東京市荒川区の行政区画(町)となる。

1964年(昭和39年)7月1日
東尾久の分割編入が行われた。

1966年(昭和41年)3月1日
残余が東日暮里・西日暮里に編入され、行政地名としての「三河島」が消滅した。

 

地名の由来

三河島」という地名の由来には、以下のような諸説がある。

三つの川(中川・古利根川・荒川)に囲まれた中洲状の土地であったため
太田道灌の時代に、武家歌人の木戸三河守孝範が当地に暮らしたため
徳川家康の関東入部の折、三河国から従ってきた人が知行したため
徳川家康の関東入部の折、三河国から従ってきた農民を住まわせたため
戦国時代の『北条氏所領役帳』にはすでに「三河ヶ島」の地名が見られる。したがって、徳川家康にまつわる由来説は江戸時代に生まれた俗説とみられる。

 

三河島」という地名の消滅について、1962年(昭和37年)5月3日に発生した三河島事故のイメージを払拭する思惑があったとする説もあるが、地図研究家の今尾恵介は俗説として退けている。「三河島町」の大部分が荒川に変更されたのは1961年10月31日(事故の半年前)である。わずかな面積が数年間「三河島町」として残ったが、道路からはみ出るなどしたわずかな面積であって、もともと他町名への分割編入が意図されたのであろうという。