清瀬町時代の下清戸を探すため、Googleマップを見ていたら、気になるピンを発見した。
ストリートビューで確認しようとしたが、行けないところにあった。
以前、志木街道沿いのその道に近いところには来たことがあるので、土地勘はあった。
2024年7月18日、実際に行ってみる。
(写真を撮るのを忘れてしまったので、想像してね。)
この先も行けるのね。
農道は舗装されており、歩きやすい。
地図に道が書かれているので、
公道?
私道?
誰もいないことをいいことに農地の間を歩いていく。
天気が続いていて、風が強かったら、砂埃が凄そう。
途中、境界石を発見。
防衛施設と刻まれていた。
これは違う。
こんなところにあんのかなあ。
しばらく進むと、ようやく目的のものらしい石柱が見えた。
十字路になってるところにあった。
こんなところにあるんだ。
最初見えたのは裏側だった。
第拾七號と刻まれていた。
正面から見る。
後ろの方から歩いてきたのだ。
周りは農地が広がる。
海軍用地と刻まれている。
もう1本あるはず。
それは右奥の方に見えた。
私有地感が漂う。
扉があるが、開いている。
誰もいないし、ここまで来たのだから、行ってみよう。
正面
海軍用地
裏面
第拾八號
第拾八號ということは、最低18本あったはず。
周りを見回すがこの2本しかないようだ。
よく抜かれないで残っていたものだ。
確認すべきものは無事出会うことができたし、次の目的地へ進もう。
ここから先は、舗装されていない、ところどころにぬかるみがある道。
突き当りに出た。
来た方向を振り返る。
両側を柵に囲まれている道を歩いてきた。
私有地と国有地が混在している。
右側はひまわり通り
近くの畑で清瀬ひまわりフェスティバルが2024年8月6日から2024年8月13日まで開催されるようだ。
約24,000平方メートルの広大な農地に約10万本のひまわりが出現するそう。
行ってみたい気がするが、どうしよう。(この記事の投稿日は8月15日、すっかり忘れていた。)
次の目的のものは左側にあるはず。
車止めかな?
人と自転車は通れるようだ。
公道なのだろうか?
行ってみよう。
両側のフェンスにはいろいろな注意書きが貼られていた。
このまま進んでもいいのかとビビりながら歩を進める。
以前歩いたことがあるような気がしないでもないが、覚えていない。
途中、木製の電柱らしいものが立っていた。
写真だと真っ黒の棒にか見えないが、電柱に似ているのだ。
目的のものは中々見つからない。
この辺かな?
あった。
そう、目的のものとは門柱。
今は「在日米軍基地 大和田通信所」となってる場所にあった。
元は大日本帝国海軍大和田通信隊所属「大和田無線通信所」だったところ。
境界石もそうだが、何でこんなところに海軍のものがあるんだろう?
ここは、
通信状態が非常に安定している。武蔵野台地の中心地であり、周辺に電波障害要因の鉄道、幹線道路、民家など障害物が無く、開設当時は農家が点在する森林地帯であった。
ということから、選ばれたそうだ。
1936(昭和11)年
海軍通信基地として6ヵ国の電波傍受開始
1941(昭和16)年
真珠湾攻撃の暗号「ニイタカヤマノボレ」を受信確認
1945(昭和20)年
海軍省から中央気象台(今の気象庁)に移管
1950(昭和25)年
朝鮮戦争勃発直前アメリカ海軍が強制接収
1980(昭和50)年以降
横田基地・所沢通信所と指揮命令を一体化
大和田通信所の面積は1,198,818㎡で、東京ドーム約17個分の広さ。約8割が新座市、約2割が清瀬市となっている。
基地の約6割は民有地で、日本政府が土地所有者と賃貸借契約を結び米軍に提供しているそう。
清瀬市だと思っていたが、ここは新座市だった。
どこから新座市になったんだ?
2013年頃までは富士見新道沿いにもあったそうだが、歩道設置工事の際、撤去されてしまったそうだ。
現地には説明板は設置されていない。
ホームページにも記載はないようだし、両自治体はこの存在を知っているのだろうか?
もっとも、知っていたとしても、私有地や米軍通信基地内なので、設置は難しいのかもしれない。
どちらもいつ撤去されてもおかしくないものだ。
ここに旧海軍の通信施設があったという土地の記憶を忘れさせないためにも、いつまでも残っていてほしいと、今日、終戦記念日に想う。