歩・探・見・感

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旧町名「北多摩郡清瀬町上清戸」「北多摩郡清瀬町中清戸」

今回が清瀬市の旧町名初投稿となる。

「上清戸」「中清戸」とも現存している町名なのだが、「清瀬町」時代のものなので、旧町名扱いとしている、という断りは不要だと思うが、一応断っておこう。

①東京都清瀬町上清戸

発見日  2024年7月11日

発見場所 東京都清瀬市元町二丁目



②清瀨町中清戸六三六番地

発見日  2024年7月11日

発見場所 東京都清瀬市中清戸

「瀬」の旧字体「瀨」、よろし。

③北多广郡清瀬町中清戸875番地

発見日  2024年7月18日

発見場所 東京都清瀬市中清戸

「北多广郡」よろし。

清瀬町中清戸五三八

発見日  2024年7月18日

発見場所 東京都清瀬市中清戸



日枝神社に柊の木が植えてあった。



説明板があり、日本武尊の伝承の中に清戸の由来が書かれていた。

一行は、武蔵国(東京都)をさらに進んでいきました。
 倭健命は、強い日差しに、どこか休憩するところがないかと、あたりを見回しました。
 すると、向こうに大きな木があるのが目に入りました。近付いてみると、それは、相当年数を重ねた柊の大木でした。
 大倭を出発する時に天皇から授けられた比々羅木の八尋矛と同じ木で、魔を除けてくれる木とされています。
 倭健命は、この木陰で休むことにしました。するとどうでしょう。とても清々しく心地よい気持ちになりました。
 倭健命は、いつの間にか両手でその大木の根元を覆う土の感触に感動していたのでした。
 「何と清々しい土地なのだろう」身も心も疲れ果てた倭健命は、心穏やかにこの柊の木陰でしばしの間、休むことができました。
 清瀬市清戸に鎮座する日枝神社の縁起には、倭健命がおっしゃった「清々しい土地」に因んで、「清土(現在は清戸)」と呼ぶようになりました。
 〈監修・埼玉県神社庁

歴史
江戸時代の初頭、清戸村が元禄年間に至るまでに上清戸、中清戸、下清戸の3つに分村。さらに清戸下宿村も加わり、総称して“清戸”といわれていた。

1889年(明治22年
明治政府が町村制を施行した際に、上清戸村・中清戸村・下清戸村・清戸下宿村・中里村・野塩村および埼玉県新座郡野火止村の一部を合わせて清瀬村が発足。

1954年(昭和29年)4月5日
町制を施行し、清瀬町となる。

1965年(昭和40年)11月1日
住居表示が実施され、大字上清戸、大字中清戸、大字下清戸、大字野火止、大字中里から上清戸一丁目・二丁目、元町一丁目・二丁目が成立する。

1970年(昭和45年)10月1日
市制を施行し、清瀬市となる。

清瀬町の清掃票



「下清戸」もあるのだが、2024年7月13日、18日も探索するが、まだ、発見できず。

延べ3日間探して、この成果。

もう見つけられてもいいと思うのだが、苦戦している。

畑が多すぎ。