歩・探・見・感

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「高崎市立東小学校」に残されていた「髙崎東青年學校」のプレート。

2024年8月26日、高崎市内を探索していると、学校の門柱に見慣れぬ学校名が書かれているプレートを発見した。



右側の門柱に設置されている学校名プレート。

「髙崎東青年學校」とある。

金属製のプレート。

古そうだ。

歴史を感じる。

しかし、ここは高崎市立東小学校のはず。

併設されているのか?

こちらもはしごだかの"髙"で、学は旧字体の"學"となっており、これも古いのかもしれない。

「髙崎東青年學校」とはどういう学校なのだろう?

「髙崎東青年學校」や「高崎東青年学校」で検索してもヒットしない。

「高崎」「東青年学校」と分けて検索すると、ようやくヒットした。

wiki高崎市立東小学校の沿革に「1935年(昭和10年)4月青年学校令施行に伴い、東青年学校を併設」と書かれていた。

そもそも青年学校(せいねんがっこう)とは?

調べてみよう。

1935年(昭和10年)に公布された青年学校令に基づき設置された、かつての日本における教育機関である。太平洋戦争終戦後の学校教育法が制定されるまで存在した。

青年学校は当時の義務教育期間である尋常小学校(のちに国民学校初等科)6年を卒業した後に、中等教育学校(中学校・高等女学校・実業学校)に進学をせずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行っていた。

1947年(昭和22年)4月1日
学校教育法の施行に伴い、青年学校令が失効。
学制改革(六・三制実施、新制中学校の発足)により、青年学校の普通科は廃止の上、その施設・教員・生徒は新制中学校に移管される。

1948年(昭和23年)4月1日
学制改革(六・三・三制の実施、新制高等学校の発足)
青年学校の本科は廃止の上、大半が新制高等学校の定時制分校として新制中学校に併置され当分の間職業教育活動を継続した。

ということで、戦後まであった学校であることが分かった。

高崎市立東小学校のホームページに書かれている沿革

大正4年
高崎市立東尋常小学校開校

昭和16年
高崎市国民学校と校名変更

昭和22年
高崎市立東小学校と校名変更

ここには、東青年学校を併設したことは書かれていなかった。

このような戦前からある学校名のプレートが残されていることは珍しい。

どのような経緯で残されているのかはわからないが、小学校がある限り残されていくことを願いたい。

ネットで調べてみた限り、これについて書かれている記事は見つからなかった。

見つけられなかっただけかもしれないが、他の方が書いていないと思われるものを発見できた時は、うれしい。

単独で記事にしたい気持ちわかるよね。

えっ、わからない?

いいんだ、所詮、自己満足。

初見は探索のだいご味で、モチベーションのひとつにもなっているのだ。

自己満、自己満。