横浜市の境界石のことを調べていたら、「居留地境界石」「道路境界石」「敷地境界石 」という3種類の馴染みがない境界石が存在していることを知った。
まず横浜の居留地のことを少し調べてみた。
1858(安政 5)年にアメリカなど列強との間で締結された通商条約に基づく開港場のひとつとして幕府によって横浜は開港され、外国人が住んで商売をする場所として居留地を設けることになった。
1862(文久 2)年 、神奈川奉行所は居留地(バンド)全体の図面を作成し、これに地番をつけた。1867(慶応 3)年には、山手地区(ブラフ)が居留地に加えられ、やはり同様に地番がつけられた。山手居留地はBLUFF「〇」番地と表記され、外国人居留地と日本人居住地との境界には「居留地界」と記された境界石が建てられた。
そして 1899(明治 32)年、新しい条約が実施された際(条約改正)に、居留地の制度が廃止され、旧居留地は山下町(旧バンド)と山手町(旧ブラフ)になった。
居留地境界石は、この時設置されたものだということが分かった。最古のものだと1867年となり、なんと今から157年前!
そんな古いものが残っているんだ。
しかし、関東大震災での山手地区の被害、その後の再開発により次々と失われ、今では5本だけ残されているだけという。
1本は横浜開港資料館に常設展示されているそうだが、4本あると思われる屋外に展示又は現存しているものを探してみることにした。
まずは屋外に展示されているものから探していこう。
撮影日 2024年9月23日、24日
①山手十番館
横浜開港の頃、海岸沿いに建てられた外国の商館は「一番館」「二番館」・・と呼ばれていた。山手十番館は母体である勝烈庵の十番目の店として昭和42年(1967年)に明治100年を記念して建てられた。
歩道沿いにある居留地境界石
正面
文字がはっきりと読み取れる。
「界」の字が特徴的。
設置されているプレート。
慶応3年(1867)
山手居留地開設時の石標
②レストラン山手ロシュ
草に囲まれていて後ろ側の頭しか見えない。
店の中からの店員の視線も気になる。
花壇の中に勝手に入るわけにはいかない。
早々に引き上げることにした。
翌日再訪する。
この日は定休日だった。
正面からだと何も見えない。
ちょっと失礼して・・・、少し草をどけて・・・。
「居留」の文字だけ確認できた。
花壇を整備したあとに全体を見れた方もいるようだ。
タイミングが悪かった。
次から紹介するものは現役=設置当時からその場所にあるもの。
③見尻坂
「見尻坂」は元町プラザの裏手から外国人墓地に沿って曲がりくねりながら続き、横浜地方気象台を経て山手本通りへと至る坂。
ユニークな坂の名前は、上るときに前の人の尻がすぐ眼の前にくるほど傾斜が急なためということからつけれられたとのこと。かつては元町プラザのある辺りに「増徳院」があり、近くには明治維新後に増徳院から分離した「元町厳島神社」の社殿があった。見尻坂はこの脇を通ることから「宮脇坂」と呼ばれていたこともあるとのこと。
この辺りから階段が始まる。
この写真の左下、日陰で見えにくいがここに貴重なものが残っている。
日が当たっている時に撮り直したもの。
階段下側(左側面)
左側が「居留地境界石」らしいのだが、現時点では、すべて剥落していて、文字を確認することが出来ない。
2016年3月頃までは「界」の文字が残っていたそうなのだが、その後すべての文字が剥落してしまったそうだ。
自然剥落か人為的なものかわからないが、見ることが出来なくなってしまい、とても残念だ。
下に落ちている石は固めてあったコンクリートだと思われる。
上面
手前の境界石(道路境界標)の中央には境界点を示すくぼみがあり、4角に向かって線が刻まれている。
階段側
「道路境界標」という文字が刻まれているのが確認できる。
見尻坂を上から見下ろす
ブラフ積の擁壁がこの坂を彩っている。
今は階段があるため、登るのは楽な方な坂になっている。
①から③は場所が公開されているものだったので、行けば、誰でも見つけられる。
と言っても、山手は観光地で見所が多くある。これらだけをわざわざ見つけにいこうなんて思うのは、酔狂なマニアくらいかもしれない。
④西山手
調べていると場所が公開されていない④の存在を知った。
場所が公開されていないので、自力で探すしかない。
ヒントは発見された方の
「大谷石のブラフ積み擁壁を背に、谷側を向いて立っている。」
「谷側にも民家が建ち並び、狭い路地を入った奥にある。」
という言葉と写真だ。
Googleマップと地図と航空写真で候補をいくつかピックアップする。
Mapionの地図を印刷し、ピックアップした場所に付箋を貼る。
ピックアップした路地をストビューで確認してみるが、入り込めない場所になっていて、現地に行って自分の目で確認するしかない。
2024年9月24日
ピックアップしたところをアタックする。
全滅だった。
あの激坂、激階段の上り下りが無駄になった。
あの時間は何だったのか。
苦労したのに。
でも、途中、路地の秘境みたいなところがあり、行っても行っても路地があり、楽しむことができたのが収穫だった。今となっては、どこにあったか思い出せないので、もう二度とたどり着けないかもしれない。
山手地区初心者が探索初日で見つけられるはずがない。
仕切り直しするしかないのかとあきらめ、心が折れかかっていたところ、気になる路地を発見する。
行ってみよう。
路地に慣れていない人なら進むのをためらうような路地だ。
ワクワク!
おお!
こんなところに隠れていたのか。
ビギナーズラック!
正面
上部に黄色いペンキのようなものが点在している。
正面アップ
「居留」の文字は風化が進んでいてはっきり確認できないが、「地界」の文字はなんとか確認できる。
白く見えるのはペンキ?
もしかしたら、カビの一種かもしれない。古い庚申塔などでもよく見かける。
右側面
「神奈川縣」と刻まれている。
他の場所に設置されているものは「神奈川縣」と刻まれていないようだ。
設置時期が異なるからだろうか?
左側面
文字は見当たらない。
上面
家に帰ってからGooglマップを調べてみたが、これにたどり着ける道が地図にはなかった。
航空写真では確認できたが、場所を知っていないとたどり着くのは難しいだろう。
事前調査でもわからなかったはずだ。
ブラフ積擁壁を調べていたところ、横浜市のホーページに「山手地区のブラフ積擁壁分布図」を発見するも、その分布図にも載っていなかった。
自分みたいな初心者には、中々ハードルが高かったが、幸運にも発見することが出来て、嬉しい限りである。
参照にさせて頂いたサイト
「横浜古壁ウォッチング」さん
・現役の居留地境界石を確認
・見過ごされていた居留地境界石
・山手に残る敷地境界石
・古色を秘めた道路境界石
「横濱彷徨録」さん
・横浜山手の境界石 その1
・横浜山手の境界石 その2
・横浜山手の境界石 その3
・横浜山手の境界石 その4
・再び横浜山手の境界石を巡る(横浜山手の境界石 その5)
・再び横浜山手の境界石を巡る(横浜山手の境界石 その6)
・再び横浜山手の境界石を巡る(横浜山手の境界石 その7)
Thank you so much.
この記事を書くために調べ物をしていたところ、④の所在地が書かれている記事を発見してしまった。(上の参照にさせて頂いたサイト以外)
行く前にこの記事に気が付いていたら、ピックアップに時間をかけないで済んだかもしれない。
しかし、Googleマップには載っていない道なので、結局、現地で確認するしかなかっただろう。
事前調査不足。
探索中に「道路境界石」や「敷地境界石 」もいくつか発見した。
まだ発見できていないものもある。
また、激坂と激階段がある山手へ再びか三度か発見できるまで繰り出すことになりそうだ。
横浜市までは少し遠いのだけれど、頑張るぞ!