歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

東京都指定旧跡 南町奉行所跡

訪問日 2023年2月11、18、24日、3月4日、4月8日

それほどいろいろなものがあるわけではないのだが、撮れないものがあったり、気に入った写真が撮れなかったりと、何回も訪問することになってしまった。

 

JR有楽町駅中央口前にある地下広場入口(円形屋根)に「南町奉行所跡」と書かれた碑が立っている。

一見、大理石のようにも見えるが、たぶん何かを収納している金属製のボックスではないかと思われる。

旧跡碑をなんでこんなものにしてしまったのかな?

 

そのすぐ横には「石組下水溝」が再現されている。

この日は「日本遺産の日」のイベントが開催されていて、テントが設置されており、機材などが邪魔だった。

 

改めて、訪問した(2023年2月18日)が、写真の右側奥に人が座っていたため、写らないように、左から撮る。

 

撮影日 2023年2月24日

南町奉行所で使われていた石が2段に積み上げられ、ベンチのように座れるようになっている。

 

史跡を解説したプレート

 

遺構発掘当時の写真

南町奉行所の平面図

地図

江戸奉行は、寺社奉行勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職業は、江戸幕府の行政・司法・警察など多方面に及び、定数三名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務していました。
南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数奇屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。
その範囲は、有楽町駅及び東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
再開発事業では、石組下水溝の一部をここ再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。

 

地下広場に穴蔵と木樋が展示されているらしいので、地下広場入口からエスカレーターに乗って地下1階へ行くが見つからず。

 

再訪日 2023年3月22日

地下におりて、この日も見つからず。

有楽町マリオン方面へ向かう地下道を歩いていたところ、地図があったので見てみた。

〇%下りとか上りとか書いてある。わざわざ書いてあるということは結構傾斜があるのだろう。

 

この地図に南町奉行所文化財と書かれていたのを発見した。

 

戻ってみるとその場所はワクチン接種会場になっていて、見えないようになっていた。

今までわからなかったはずだ。

背伸びしてみてみると、それらしきものが見えた。

撤去されてしまったのではないかと心配したが、そうではなくてよかった。

この東京都有楽町駅前地下ワクチン接種会場は令和5年3月末日で運営を終了するとあるので、それ以降に訪問するしかないようだ。

 

2023年4月8日

ようやく「穴蔵」を拝むことができた。

この板枠は、ここの再開発に伴う遺跡発掘で発見された「穴蔵」を、壁に立てて展示したものです。この穴蔵は、江戸時代中期の南町奉行所内に掘られてた地下室で、なかから伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しました。また遺構両脇の木製ベンチには江戸時代の水道管(木樋)を、向かいの石のベンチには奉行所の石組材を再利用しました。
 穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間には槙肌(木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹管が延びて桶に水が溜まる構造となっています。
 ここがかつて町奉行 大岡越前がつとめた南町奉行所(東京都旧跡)であったことや、江戸時代の技術などを伝えるために設置しました。

大岡越前守様御屋敷ニ而

市川儀平太様  檜垣六神主
山本左右太様  福井土佐
小林勘葳樣   久志本権之亮

 

土台の石

記号のようなものが彫られている。
家紋だろうか?

 

穴蔵の両脇の木製ベンチは木樋(江戸時代の水道管)を再利用したもの。

 

広場の木の柱の周りをぐるりと囲むように並べられた石のベンチ。

これらは奉行所の石組材を再利用したもの。

上とは別な場所に設置されているベンチたち。

この写真ではベンチが3つしか写っていないが、4つある。
一番左は写さない方がいいと思われる人がいた。