歩・探・見・感

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武蔵野鉄道引き込み線跡(たての緑地)で「旧中島航空金属田無製造所」の境界石を探す

2024年8月19、20日、ブログ開設3周年を迎える前の日と迎えた記念の日、東京の最高気温34℃台とほぼ猛暑日の中、東久留米駅から探索を開始した。

実は18日時点ではここの存在はあまり知らず、19日はほぼ逆走しただけで、家に帰ってから、ネットで事前調査し、20日、現場にて実施調査に臨んだのだった。

ここのことは多くの方が詳細に書かれているようだ。なので、自分はほとんど触れられていないと思われる「旧中島航空金属田無製造所」の境界石の探索をメインにすることにした。

引き込み線の築堤と送電線。

当時の引き込み線の場所を、今は送電線が走っている

築堤は西武鉄道の所有となっている。

橋の先の左側に築堤が続いている。

河川鉄橋のコンクリート台座があるらしいが、草に覆われて確認することが出来ない。

橋を渡ろう。

たての緑地入口付近

住居表示街区案内図

都市計画緑地 たての緑地

説明板

東久留米駅から田無製造所への引き込み線

東久留米市指定旧跡 旧跡第4号

武蔵野鉄道引き込み線跡

学園町一丁目1番から二丁目1番他

この「たての緑地」は、昭和19年(1944)に武蔵野鉄道(現在の西武池袋線東久留米駅から旧中島航空金属田無製造所へ敷設された鉄道の引き込み線跡です。
東久留米から分岐された全長2.84Kmの側線で、正式名称は「東久留米駅構外線」です。当時、西東京市谷戸(旧保谷町・田無町)には軍用機エンジンを製造していた中島飛行機武蔵製作所(現武蔵野市)の鋳造部門の工場である中島航空金属田無製造所があり、砂などの原材料や燃料を小型蒸気機関車が引く貨車に乗せて運んでいました。昭和20年8月の終戦によって廃線となり、引き込み線は昭和30年代までその原形を保っていましたが、現在は築堤された道床や切通しなど、その一部を残すのみとなっています。
旧跡指定は東久留米市所有部分のみです。

東久留米市教育委員会

この説明板は始点付近、中間地点付近、終点付近の3ヶ所に設置されていた。

2022年3月発行の東久留米市の資料「郷土資料室通信 №60」によると古い写真を含めて13ヶ所の境界石(境界標)の存在を確認したとある。

その資料によると

学園町1-1   2本
学園町1-4   7本
学園町1-4~5 2本
学園町1-5   1本 郷土資料室所蔵
学園町1-6   1本 写真

となっている。

1本は写真、1本は郷土資料室所蔵なので、現存していると思われるものは11本。

郷土資料館に行ったが、境界石の展示はされていなかった。

さて、今回の探索で何本発見することが出来るだろう。

たての緑地の歩道を歩いていく。

途中階段があったので、降りて、見上げてみた。

結構な段数がある。

階段の段数は・・・数えていない。

下の方に川が流れているところがあり~の。

たぶん湧水。

てくてく。

暑いのう。

たての緑地、最後の鉄塔



笠松坂通りを越えると西武ハイヤー多摩地区配車センター・ひばりヶ丘があり、この手前辺りで廃線跡は終わりを告げる。



歩いた緑地で見つけた境界石たち。

暑いし、草が生い茂っており、発見には困難を極めた。

汗まみれになりながら、必死に捜索したにもかかわらず、見つけられたのは1部だけだった。

西武鉄道

国鉄



まず中島飛行機の社章を確認しておこう。

「社章」は1934年(昭和9年)社内募集によって決められた。中央に中島飛行機の「中」を、その周囲に陸軍・海軍・民間機を意味する3つの飛行機を配置している。軍・民に積極的に伸びていこうとする中島飛行機の願いが図案化された。

ここからは中島飛行機の社章が刻まれていると思われる境界石を見ていこう。

これが一番わかりやすいかも。

冬になり、草がなくなったら、再チャレンジして、。

旧中島航空金属田無製造所

住友重機械工業株式会社田無製造所

通用門

この門柱は中島航空金属当時からのものとのこと。

正門