歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

「たなばたさま」の作曲家で知られる下總皖一が母校の校歌の作曲者であることを知る。

2025年10月13日、トイレ休憩のため立ち寄った「加須市大利根文化・学習センター(アスタホール)」。

そこに下總皖一資料コーナーがあった。

幻の卒業歌

 花かをる

若き詩人「宮澤章二」と下總皖一の出会い

卒業式で歌われる「蛍の光」や「仰げば尊し」は、いずれも外国の曲に日本語の歌詞をのせたものです。太平洋戦争当時、これらは敵国歌とされ歌うことが許されませんでした。昭和18年、文部省は「蛍の光」に替わる修了歌(卒業歌) の歌詞を公募。2,118点もの応募作品の中から選ばれたのは、羽生市出身の若き詩人「宮澤章二(当時24歳)」の「花かをる」でした。
下總皖一が曲をつけて完成した「花かをる」は、昭和19年から国民学校で歌われるようになりました。ところが、敗戦後に「蛍の光」「仰げば尊し」が卒業式の歌として戻ってきたことから、戦時中につくられた国策曲「花かをる」は昭和20年3月の卒業式に1度だけ歌われた幻の卒業歌となりました。

下總を介し 宮澤は放送音楽の世界へ進出
宮澤は戦後、放送音楽にも深くかかわっていく。昭和21年5月1日から16年間放送されたNHK 「ラジオ歌謡」における番組オリジナル曲の作家の1人として、昭和26年から活動を開始。このとき、先にNHKの仕事をしていた作曲家「宮原禎次」に宮澤を紹介したのが、下總だった。

「花かをる」 歌詞の改編
平成25年に羽生市立三田ケ谷小学校内に「宮澤章二記念館」が設置される際、当時の同校校長「江原博之」氏の依頼を受けた宮澤の長男「鏡一」氏の手で、「花かをる」の2番の最終フレーズ 「みたみ 我 国につくさん」が改められ、「我らいざ 夢に向かわん」に変わった。唱歌や校歌等では同様の改編は少なくない。

修了歌「花薫る」 オリジナル歌詞(昭和17年作)

1 花薫る 学びの庭に
   別れ行く門出の朝(あした)
   思い出は 胸にあふれて
   懐かしき わが師 わが友

2 風すさぶ ゆくての道も
   望みもち たゆまじ常に
   あたたかき 教え守りて
   みたみ 我 国につくさん

しもおさかんいちふる里マップ

愛用していたピアノや生家の模型

♪下總皖一愛用ピアノ♪


このピアノは、郷土:加須市の偉人「下總皖一」が晩年に自宅で使用していたもので、富士楽器という会社がドイツ製の部品を使って製作した「ベルトン」というピアノです。お孫さんの佐代子さんも使われていたそうで、可愛らしい4つのシール(2つは蓋の裏側)からは、下總家の温もりが感じられます。
このピアノは、平成9年頃に下總家から旧大利根町に寄贈され、当初「大利根文化体育館で展示していましたが、おおとね図書館 「ノイエ」が完成した平成16年に、ノイエの「童謡のふる里コーナー」へと展示場所を移しました。
やがて、このピアノを奏でて活用していこうという声が高まり、平成27年2月から3月にかけて市が修復を行い、同年3月15日、「下總皖一愛用ピアノ修復完成披露音楽会」が大利根文化・学習センター「アスタホール」で開催され、往時の音色が蘇ったのでした。
この音楽会を機に、ピアノはアスタホールの「下總皖一資料展示コーナー」でご覧いただくこととしました。併せて、日本の近代音楽に大きな影響を与えた下總皖一先生を顕彰する音楽会などで、実際に演奏され、活用されています。

加須市指定有形文化財 その他の有形の文化的所産 

下總皖一 肉筆楽譜

指定年月日 平成二十二年二月一日
所在地   加須市北下新井六八四番地一
所有者等  加須市

下總皖一は明治三十一年(1898)三月三十一日、原道村砂原(現加須市) に生まれ、大正九年(1920)東京音楽学校を首席で卒業、記念奨学賞を受賞した。その後、ドイツでの留学を終えて、 昭和九年(1934)東京音楽学校の講師として迎えられ、昭和十七年(1942)同学校教授を務めた。新しい学校制度により、東京音楽学校東京藝術大学となり、昭和三十一年(1956)同大学音楽学部長を務めた。
作曲活動にも力を入れており、「たなばたさま」「花火」「野菊」「ほたる」 などの曲は、下總統一の曲として有名であるが、実は、彼の作曲分野は極めて幅広く、合唱曲、器楽曲、協奏曲や校歌など、多岐にわたっている。 作曲活動以外にも、音楽理論の分野でも有名であり、「和声学」は、ドイツでの思師パウルヒンデミットから激賞された。その後次々と理論を著し、「作曲法」「日本各階の話」「作曲法入門」「楽典」「音楽理論」 「体位法」など日本の近代音楽の基礎を作ったとされ、『和声学の神様』とも言われている。
歌唱曲四百七十二曲、校歌五百四十二曲、器楽曲六十九曲の楽曲数千八十三曲の肉筆を指定し、氏の功績を称え保存、活用するものである。

平成二十三年三月
加須市教育委員会

著名な方だったが、全然存じ上げないだった。

校歌マップ

埼玉県校歌マップ

なんと!この中に母校の中学校の名があった。

びっくりぽん。

でも校歌は全然覚えていない。

全国校歌マップ

皆さんの学校もあるかもしれない。

探してみよう。

小さくて見えないって?

なら、調べてみてね。

下總皖一が作曲した校歌の数

氏が生涯で作曲した小・中学校、高等学校、大学等の校歌の数は、400曲とも500曲とも言われてきました。平成23年加須市が資料を整理してみると、全国で418校、埼玉県内だけでも96校この校歌を作曲していることが確認できました(校歌マップ参照)。
加須市がホームページ等でこれらの校歌一覧を公表したところ、全国各地から問い合わせ情報提供が相次ぎ、校歌マップや一覧の更新が間に合わないほどでした。それから10年以上経った今でも、ときどき情報を寄せてくださる方がいらっしゃいます。
例えば今年の夏のできごとです。甲子園球場での「全国高等学校野球選手権大会」をテレビでご覧になっていた方が、市に連絡をくださいました。出場校紹介の際の校歌が流れると、「作曲:下總皖一」の文字に気付いたのだそうです。8月9日が初戦の兵庫県代表「兵庫県立社(やしろ)高等学校」 の校歌でした。
更新作業中の校歌一覧を覗くと、埼玉県内だけでも104校、熊本・沖縄の2県を除く45都道府県に氏作曲の校歌が存在し、海外の日本人学校を含む総数では510校を超えています。これからも更新を続けますので、新情報がありましたら、ぜひ次のところまでお寄せください。

上で今年と書かれているのは2023年の事だった。

隣接する野菊公園

下總皖一作曲の童謡「野菊」の歌碑と「奏でる」像



童謡のふるさと おおとね


2020年3月31発行の第52号さいたま合唱ニュースの10ページに「埼玉・芸術家シリーズ「童謡と和声楽の偉人」-下總皖一-」の記事があった。

https://saicl.net/wordpress/wp-content/uploads/2017/08/Pause52-1.pdf

そこに北浦和公園の敷地内に「下總皖一先生を称える碑」があることが書かれていたので、約1ヶ月後となる2025年11月6日訪ねてきた。

どこにあるのか調べてこなかったが、案内図の下の方に「下總皖一の音楽碑」と書かれていた。

「下總皖一先生を称える碑」

裏面


下總皖一(覚三)は、明治三十一年三月三十一日埼玉県原道村(現大利根町※)に生まれる。 
埼玉師範学校東京音楽学校卒業後、各地の師範学校で教鞭をとる。昭和七年ドイツに留学、パウルヒンデミット教授に師事、作曲を学ぶ。帰国後、母校音楽学校に引続き、東京藝術大学音楽学部教授として、作曲、音楽理論、音楽教育などに、大きな足跡をのこし昭和三十一年同大学音楽学部長となる。 
永眠されたのは昭和三十七年七月八日であった。
「たなばた」「ほたる」「花火」など広く親しまれている歌の数々、多くの合唱曲、「管弦楽のための変奏曲」「主題と変奏(弦楽三重奏)」「クラリネットのための三つの小品」「箏独奏のためのソナタ」などの作品と「和声学」「対位法」「日本音楽理論」などの著書がある。 
日本の作曲界黎明期における先達として、あまたの作曲家、教育者を育てる。ここに十七回忌にあたり、友人並びに薫陶を受けた人々が相集い、ゆかりの地に、永く業績を称える碑を建てる。 

昭和五十三年七月二日 下總皖一顕彰碑建立会