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平尾の古民家に残る旧町名表札を調査──「東京府南多摩郡稲城村平尾」は明治期の痕跡を今に伝えるか

プロローグ

明日どこを散策しようかと考えながら、何気なく東京都稲城市の文化財を調べていたところ、「平尾の古民家」が2025年11月22日(土)に一般公開されることを知った。

www.city.inagi.tokyo.jp

――明日じゃん。

公開時間は9:00〜12:00の午前中だけ。終わるのが早いけれど、思い立ったが吉日。朝から動けば間に合うだろうと出かけることにした。

さて、本稿を公開した本日4月1日は、明治22年(1889年)に平尾村を含む近隣の村々が合併し、「神奈川県南多摩郡稲城村」が誕生した記念すべき日である(その4年後には東京府へ移管される)。

かつての「村」が産声を上げたこの日に、時を超えて古民家の軒先に残る「稲城村」の痕跡を辿った記録を整理しておきたい。

浦和から湘南新宿ラインに乗ったが、まだ9時台なのに混雑していた。満員電車はどうにも苦手だが、新宿まで我慢。そこから小田急に乗り換え、新百合ヶ丘駅で下車する。ここで降りるのは久しぶりだ。

駅を出て川崎市麻生区から東京都稲城市へ入り、

平尾谷戸通りを歩く途中、

「御大典記念 道路開鑿碑」を見つけた。

「中村克昌書」とあり、裏面には細山・金程・柿生・古沢など各地区の寄附者名が刻まれている。昭和三年三月、稲城村平尾区の建立らしい。

この日は青空が広がる気持ちの良い天気だった。

平尾の古民家について

特 徴  江戸時代後期の平尾村名主の民家
      (接客用玄関・軒下の構造・養蚕農家の特徴など)

構 造  木造平屋建、寄棟造り、茅葺き

建築年代 主屋 天保14年(1843年)10月
     土蔵 明治26年(1893年)

建築面積 約38坪(約125㎡)

担当課  稲城市教育委員会 生涯学習課

先客が数名いた。中に入ろうとしたところ、玄関の上に古い表札のようなものが右側に3枚、中央付近に2枚並んでいるのに気づいた。

右側に3枚

中央付近にも2枚

玄関で夢中になって写真を撮っていると、係の方が資料を配ってくれた。ついでに表札の内容について尋ねてみたが、「一番右のものが最も古いと言われていますが、拓本を取っても判読できませんでした」とのこと。建物が主役なので、表札はあまり注目されていないようだ。こういうところに目が行くのは、たぶん自分のようなマニアだけだろう。

現地では老眼で読めなかったが、帰宅後に画像を拡大して確認してみた。

表札の解読

右側の3枚

一行目 〇〇〇(南多摩?)〇〇〇〇〇〇〇〇〇(稲城村平尾百七拾八?)番地

二行目 平民 他の文字もあるようだが、解読できず。

三行目 石井郡次郎

中央

右側に住所、左側に氏名があるようだが、ほとんど読めない。


これもわかりにくいが、どうにか下記の文字を確認することが出来た。

一行目 東京府南多摩郡稲城村

二行目 平尾百七拾八番地平民

三行目 石井八百蔵

「平民」と書かれた表札は初めて見た。戦前のものだろうが、いつ頃のものなのか気になる。

中央付近の2枚

右側 「平尾」と読める気がする

左側 石井喜代作

ここで苗字と表札(標札)と郵便の歴史を調べてみよう。

1870年(明治3年)9月19日
太政官布告第608号「平民苗字許可令」で新政府は四民平等の社会を実現するため、平民に苗字を公称することを許可した。

1871年(明治4年)
郵便に関わる太政官布告が交付され、郵便制度が施行。

1875年(明治8年)2月13日
あらためて苗字の使用を義務づける「苗字必称義務令」という太政官布告を出し、すべての国民に苗字を名乗ることを義務づけた。

1876年(明治9年)12月9日
東京府管内で、標札の雛形を示し、1877年(明治10年)1月31日を期限として標札等を標出致すべし旨の布達が出された。

警察法鑒 明治23年 - 国立国会図書館デジタルコレクション

警察法鑒 明治23年 - 国立国会図書館デジタルコレクション


懐中日用便 - 国立国会図書館デジタルコレクション には下記の資料があった。

著者青木輔清 編 出版者 青木輔清 出版年月日 明10.1

「標札書式 但し東京府」

これに身分が書かれている。

明治時代の表札には、身分が書かれているものがあったということになる。

「石井八百蔵」がいつ頃の人物か分かれば、表札の年代も特定できるはずだ。

図書館での調査

そこで2025年12月某日(何日だったか忘れた)、稲城市立中央図書館に行って資料を探してみた。

「平尾の古民家」という本があったが、建物について書かれた本で、自分が知りたい石井家のことについては書かれていなかった。(多摩市中央図書館で確認済。)

がっかり。

他にないか、何冊か探してみたところ、「稲城市史資料編3 近現代1」という資料があり、そこの875ページの上段だったと思うが、次のことが書かれていた。(自分でメモしたので、書き間違いがあるかもしれない。)

平尾青年談話会々員名簿

大正四年拾壱月十日 1915年11月

明治35年入会 本会幹事数回 同四拾一年満期・功労会員に編入 同四拾弐年八月十弐日死亡 石井八尾蔵

明治35年入会 石井八蔵

鈴木静蔵と石井善一を発起人に、1892(明治25)3月15日に創立された。

石井八百蔵」ではないが、「石井八尾蔵」とある。

"百"と"尾"

表札の文字が薄いので読み間違いか、古文書の書き間違えか、写し間違いか、別人か、正確なことは、資料では確認することが出来なかった。

もし、別人でなければ、明治時代の表札の可能性があるということになる。

図書館にある資料ではここまでが限界だ。

稲城市への問い合わせ

そこで、表札について稲城市に問い合わせることにした。回答が得られるか不安だったものの、無事に返答を受け取ることができた。(2026年1月15日、20日)

・自分が確認した表札に書かれている文字は、稲城市にて管理しているものと同じ。

・「石井八百蔵」については、石井家に関する古文書が教育委員会で収蔵していないため、この表札に該当する氏や家系図について確認することができない。

「平民」と書かれた古文書については、明治以降の古文書でよく見られる言葉で、
大正時代でも「平民」を使用した古文書は残されている。

・一概に明治期に作成された表札として断定することはできないが、表札に記載の稲城村は1889年(明治22年)に誕生しているため、平尾の古民家の表札は明治22年以降のもの(明治以降に作成はされている)と推測できる。

ということだった。

追加調査と行き詰まり

さらに調べていると、下記の資料があった。

大田原市-地域史資料デジタルアーカイブ:『大田原市史』後編

目次 / 第三編 社会 / 第一章 明治・大正の世相 / 第一節 文明開化と明治前期
四民平等

一方、明治二年(一八六九)六月に、公卿・諸侯を華族とし、藩士を士族・卒族(まもなく解消)に、それに農工商を平民とする、いわゆる「四民平等」が表明されたのである。翌三年九月十九日には、平民に姓(氏)の呼称を許可し、同八年二月十三日には、名字を必ず付けるよう布告されたのである。またその間には、異なる身分間の結婚も認められ、職業や居住地の選択も自由とされた。しかし、大正三年(一九一四)に身分登記制が、士族・平民の呼称を公的に廃止した後も、「栃木県士族」と表札を掲げる家も時には見られたようである。

なので、大正、昭和になっても、身分を表札に書いていた可能性は否定できないが、士族ならともかく、わざわざ"平民"と書く人がいたかは疑問が残るところ。
表札に書かれていた「石井八百蔵」が存命していた時代が判明すれば、特定できるのだが、迷宮入りとなってしまった。

※上の資料で「大正3年(1914)に身分登記制が、士族・平民の呼称を公的に廃止した」とあるが、これは誤りと言う説もある。

諦めきれずにAI(Copilot)に相談してみたところ、「旧土地台帳」というものがあることを知った。

稲城市の旧土地台帳は東京法務局府中支局で入手できるらしいので、2026年1月16日に訪問した。窓口で確認すると、「登記事項証明書(登記簿謄本・抄本)交付請求書」が必要とのことで、必要事項を記入して提出した。

しばらく待つと、土地台帳を受け取ることができた。土地台帳は無料とのことだった。

内容を確認したが、「石井八百蔵」の名前は見当たらなかった。このとき閉鎖登記簿も取得しておけば二度手間にならなかったのだが、知らなかったため、後日改めて訪れることになった。

帰宅後、再び Copilot に相談したところ、「明治時代の人物であれば、親族でなくても除籍謄本を取得できる」という情報を得た。

ここで Copilot を鵜呑みにせず、もっと調べておくべきだった。

無知なまま、2026年1月27日に稲城市役所を訪れ、書類に必要事項を記入して提出したが、「親族以外は取得できない」との回答だった。

帰宅して Copilot に確認すると、今度は「親族でなければ取得できない」との回答。文句を言っても仕方がないので、先へ進むことにした。

めげずに Copilot に相談すると、「閉鎖登記簿を取ってみてはどうか」とアドバイスがあった。

2026年1月29日、再び東京法務局府中支局を訪れ、閉鎖登記簿を取得した(2通で1,200円)。しかし、ここにも「石井八百蔵」の名前はなかった。

最後の頼みの綱として稲城市に問い合わせてみたが、個人情報のため確認方法は開示できないとのこと。市が調査すれば明治時代の人物かどうかは分かると思うのだが、そこまでするつもりはないようだった。

まだ方法が全く残っていないわけではないが、調査はここまでにしておくことにした。

結論

ここまで長々と書いてしまったが、結論としては次のとおりである。

・「石井八百蔵」が明治時代の人物であることは確認できなかったため、左側の表札が明治時代のものと特定することはできなかった。

・当初読めなかった右側の表札は、土地台帳のおかげで「石井郡次郎」と解読でき、これは明治時代のものであることが分かった。

・土地台帳に記載された「石井喜代作」の住所が"稲城町"となっているため、中央付近にあった表札は1957年(昭和32年)以降のものと考えられる。

稲城の歴史

1889年(明治22年)4月1日
矢野口・東長沼・大丸・百村・平尾・坂浜の各村が合併し、神奈川県南多摩郡稲城村の成立(町村制の施行)。

1893年(明治26年)4月1日
東京府南多摩郡稲城村(三多摩の東京府移管)。

1943年(昭和18年)7月1日
東京都制施行。

1949年(昭和24年)9月1日
北多摩郡多磨村(現府中市)から押立・常久の一部(多摩川右岸部出作地)を編入。

1957年(昭和32年)4月1日
町制施行。東京都南多摩郡稲城町となる。

1971年(昭和46年)11月1日
市制施行。東京都稲城市となる。

平尾の地名の由来

「ヒラ」は傾斜地や平らな土地、「オ」は峰を示し、多摩丘陵の緩やかな傾斜の峰であることから。

実際に歩くと、あれを“緩やか”と言っていいのか疑問だが。

おまけ

2026年1月11日か12日に放送された朝ドラ「ばけばけ」で住人の表札が並んだ長屋の門からトキが「松野」を表札を外すシーンがあったのだが、明治時代の表札を目の当たりにした感じで、ちょうど自分もこの記事を書いている時だったので、このシーンがとても印象に残った。

エピローグ

結局、「石井八百蔵」という人物の正体については、公的な記録の壁に阻まれ、あと一歩のところで確証を得るには至らなかった。

しかし、11月の少し冷え込んだ空気の中で撮影した写真を改めて眺めていると、薄れた墨書きの向こう側に、確かにその時代を生きた人々の息吹を感じる。江戸時代から続く名主の家系として、明治という新しい時代を迎え、地域を支え、この家を守り続けてきた人々の生きた証である。

最新のデジタルマップやAIにも映らない、数センチメートルの木の板に刻まれた歴史の断片。自分の目で確かめて初めて見えてくる世界がある。だからこそ、また街へと足を向けるのだ。

今日、4月1日。かつての「稲城村」が誕生したこの日に、改めてこの家に残る足跡を振り返る機会を得たことに感謝したい。次にあの茅葺き屋根の門をくぐる時、また新たな発見があることを願いつつ、筆を置くことにする。