歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名&電力プレート「谷中茶屋町」

今回は旧町名「谷中茶屋町」の痕跡を紹介しよう。

 

発見日 2021年4月6日(再訪日2023年6月15日)

 

①電力プレート「チヤヤ-1」

 

②谷中茶屋町三番地

coccia(コッチャ)

2021年10月にオープンしたそうだ。

所在地:東京都台東区谷中6丁目

 

店の上に掲げられている額「谷中茶屋町三番地」

旧町名は木板に書かれていると思っていたが、シールのようだ。一部剥がれてきている。

 

モミジの下には説明板が設置してあった。

ここは谷中茶屋町三番地です。
桜木町に移築した旧吉田屋の跡地です。
昭和42年1月1日からの町名変更により情緒ある町名が都内から消え去りとても残念且さみしい思いがありました。
せめてこの小さな三角地に永く続いた吉田屋への思いとその名残りを留め置きたく、ぎゃらりいをオープン致しました。
かつてこの地がそうであったように、これからも多くの人々の笑顔が行きかうことを願っております。

天茶町人

 

旧町名由来案内

明治二年、天王寺表門前新茶屋町が改められ、谷中茶屋町が誕生した。
天王寺は、応永の頃(1394~1427)に草創され、日蓮宗長陽耀山感応寺と号していたが、元禄十二年(1699)、幕府の命令により天台宗に改めらえた。そのため檀家が離れて寺の運営はおもわしくなくなり、同十五年、住職の仏頂院は経営立て直しのため茶屋町を造るべく、寺社奉行に町屋の解説を願い出た。翌十六年に許可され、感応寺表門新茶屋町ができた。その後、天保十四年(1843)に、感応寺が天王寺に改称したことから、町名も天王寺表門前新茶屋町に改められた。
明治以降、茶屋町という華やかな街から、次第に住宅街へとかわってきた。

 

1967年(昭和42年)1月1日
住居表示の実施により、西隅が谷中六丁目4番、残りの町域が現行の谷中六・七丁目に編入となり「谷中茶屋町」は消滅した。