歩・探・見・感

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「蒲生大橋」と埼玉県内の日光街道筋に現存する唯一の一里塚「蒲生の一里塚」と「藤助河岸跡」

初訪問日 2020年3月23日(再訪日2024年5月2、9、14日)

槐戸橋から



対岸から

藤助河岸跡



蒲生の一里塚

綾瀬川右岸


舟遊び

 綾瀬の月を

  領しけり

  俳人

  高浜虚子

この句は高浜虚子綾瀬川を舟で下った時の作品と言われている。

虚子の句が掲げられている反対側のプレート

そうかふるさと歩道

川が培ったふるさとのまち 

        綾瀬川コース(5.5km)

左岸

蒲生大橋
日光道中分間延絵図(文化三年一八〇六年完成)」によると、この橋は、大橋土橋と
記されており、長さ一二間四尺、幅二間一尺、綾瀬川に架けられた土橋で、御普請場。
足立郡埼玉郡の境と解説されている。
昭和五一年八月に永久橋に架替された時の橋歴書によると、大正七年六月、はじめて
木橋として架橋され、その後昭和四○年及び四八年補修整備や重量制限(ニトン)を施行
してきたが、交通量の増大に伴い上記に永久橋として架替えた。
草加市越谷市の行政界が橋の中心を横断する。

江戸時代の武士、俳人である水野長福の句

道ぞ永き

 日にやき米を

  加茂蒲生

   元禄一六年
 水野長福
   結城使行
     より

埼玉県指定史跡 蒲生の一里塚


下の3枚は2020年3月23日撮影

昭和六十年三月五日指定
一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃貸の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。
文化年間(一八〇四~一八一八)幕府が編さんした『五街道分間延絵図」には、綾瀬川と出羽掘が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分かる。現在は、高さはニメートル、東西幅五・七メートル、南北幅七・八メートルの東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ二・五メートルのケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。
多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、『蒲生の一里塚』は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。

昭和六十一年十月
埼玉県教育委員会
越谷市教育委員会
植竹誠一郎



藤助河岸跡

「藤助河岸跡」
綾瀬川通り蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃とみられている。当時綾瀬川の舟運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝八年(一六八〇)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに江戸へ直送できたからで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。
明治に入り政府は河川や用悪水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、とくに中川通りは寄洲の堆積で大型船の運航は不可能になり、中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。このなかで陸羽道中(旧日光道中)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁昌し、大正二年(一九一三) には資本金五万円の武陽水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。その出荷高は、舟の大半を大正十二年の関東震災で失うまでは、年間一万八千駄、着荷は二万駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用されていた。
なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助十八代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである。
平成五年 越谷市教育委員会

高橋藤助氏の子孫が営む藤助酒店と蔵。