歩・探・見・感

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旧町名「貫井村池ノ上草分」

2025年1月14日、小金井市内を探索していると、立派な門柱が見えた。

右側の門柱の上の方に長い住所が書かれている表札が遠目に見えた。

もしかしたら・・・。

近づいて、右側に書かれている住所を見ると、現町名だったので、がっかり。

しかし、左側を見ると、なんと「貫井村」時代のものだった。

貫井村池ノ上草分

残念ながら、当時のものではないが、旧町名を併記してくれているのはとてもうれしい。

それも「貫井村」時代のものなんて。

感激。

正式には「東京府北多摩郡貫井村大字池ノ上字草分」になると思われ、番地は書かれていないが、"219~386"の間になると思われる。

家に帰ってから調べていたところ、ここにはまだ旧町名の痕跡が存在していることが分かり、翌々日の2025年1月16日に再訪することにした。

②「武蔵國多麻郡府中領貫井村草分 式家藤原之統」と刻まれた石板


「式家藤原之統」とは藤原家とゆかりがあるのか?

平安時代より続く旧家らしいが。

③「貫井草分」と書かれた表札

昭和30年代に建てられたという日本家屋にあったので、これも後付けされたものだろう。

歴史

713年(和同6年)
諸国の郡、郷に名を付けよとの天武天皇の詔の後、「武蔵」と書かれるようになった。同時に、武蔵の国の21郡にも名がつけられた。 
[武蔵の国・21郡の名称] 
久良郡、都筑郡橘樹郡多麻郡荏原郡、豊島郡、足立郡入間郡比企郡、 
横見郡埼玉郡大里郡男衾郡幡羅郡榛沢郡那珂郡児玉郡賀美郡、 
秩父郡の19郡に後に高麗郡(716年)と新羅郡(758年・後の新座郡)が加えられた。

1868年(明治元年
府藩県三治令により旧幕領に府、県を置き、藩は旧藩のままとされた。武蔵の国の地域は「武蔵県」となった。

1869年(明治2年
武蔵県の地域は品川県小菅県大宮県東京府に4分割されて武蔵県は消滅した。多摩郡の地域は品川県に所属。

1871年明治4年
廃藩置県により、それまであった261藩が廃止となり全国が1道3府302県となった。この時、品川県は廃止となり多摩郡地域は入間県、神奈川県、東京府韮山県、前橋県、岩槻県、彦根県、竜ケ崎県、西端県などに細分割された。

1872年(明治5年)
多摩郡は殆どの地域が神奈川県に編入された。

1878年明治11年
郡区町村編成法が施行され、東京府に残っていた旧多摩地域東多摩郡となり、神奈川県に移管されていた多摩郡南多摩郡(126村)、北多摩郡(1町131村)、西多摩郡(1町93村)に3分割され、多摩郡は消滅した。

1889年(明治22年
町村制施行により、(旧)小金井村・貫井・小金井新田・梶野新田・関野新田・十ヶ新田および下染屋村・押立村・人見村・是政村・上石原村・本多新田の各一部(飛地部分)が合併し、小金井村が誕生。

1893年明治26年
三多摩が神奈川県から東京府に移管されたことにより、東京府北多摩郡小金井村となる。

1937年(昭和12年
町制施行に伴い、北多摩郡小金井町となる。

1958年(昭和33年)
市制施行で小金井市となる。

貫井南町」(ぬくいみなみちょう)
江戸時代に貫井村と呼ばれた地域。村の東側に湧水池があり、下弁天を祀る。付近の地名を(池の上)といい、貫井の地名発祥の地とされる。北に位置する坂上貫井新田に対し、南にあたる旧本村地域を貫井南町とした。

貫井北町」(ぬくいきたまち)
江戸時代に貫井村が開発した新田地域。南側にある坂下の貫井南町に対応して貫井北町とした。

「池ノ上」は通り名に残っていた。

弁天池の湧水は昭和30年代には枯渇、弁天池に因む小字名「池之上」も1959年(昭和34年)の大字小字廃止によって消滅。池の記憶が再び「池の上通り」として復活するのは1973年(昭和48年)のこととなる。