2024年5月4日、みどりの日は都立公園が無料だった。
小石川後楽園に入園するのは、たぶん初めて。
この日は4都立公園を1日で巡るという弾丸スケジュールだったので、ゆっくり見学できなかった。
そこに変わった形をした石碑があるのに気が付いた。
先を急いでいたが、撮らないわけにはいかない。
陸軍造兵廠東京工廠跡 記念碑
此地ハ陸軍造兵廠東京工廠ノ旧跡ナリ。其創立ノ起源ハ遠ク徳川幕府ノ関口水道町ニ於ケル大砲製造所ニ発ス。明治二年政府之ヲ収メテ群無冠ノ下ニ造兵司ト称シ、吹上上覧所ニ置キ、四年六月之ヲ旧水戸邸跡ニ移ス。本廠即チ是ナリ。五年陸軍省ノ所属トナリ、八年砲兵本廠ト改称シ、陸軍大佐大築尚志ヲ提理トス。十二年東京砲兵工廠と称シ、造兵ノ業完備スルニ至ル。十九年五月十五日明治天皇行幸アリ、親シク各工場ヲ巡閲シ給ウ。爾来業績年放逐フテ進展シ、日進日露日独ノ三大戦役ニ参画シテ克ク兵器製造ノ大任ヲ完ウス。大正十二年陸軍造兵廠令ノ制成リ、本廠ノ組織ヲ改メ、小銃・砲具・精器ノ三製造所ヲ以テ東京工廠ヲ設立セラル。此年関東大震災ニ遭ヒ、工場ノ大半ヲ焼失シ、従業員二十四名之ニ死ス。六年満州事変起リ兵器整備ノ急ヲ告ゲ、八年遂ニ小倉市ニ移転シ、東京工廠長陸軍中将高橋貞夫ヲ長トシ、十一月小倉工廠ヲ開クニ至レリ。嗚呼春風秋雨六十余年、幾多ノ研鑽ト努力トヲ尽シテ常ニ精鋭ナル兵器ヲ製シ、累次ノ征戦ニ偉効ヲ奉ジテ我ガ武威ヲ燿シ、以テ国運ノ進展ニ資ス。本廠ノ功亦大ナルト謂ベシ。今ヤ当年大工場ノ壮観求ムルニ由ナシト雖、其業績ハ後楽園ノ翠緑ト共ニ長ヘニ不朽ナルベシ。聊カ事歴ヲ叙シテ記念ト為ス。
側面
碑石ハ敷地ノ
昭和十年三月建之 外郭ヲ象徴ス
面積十三萬坪
何でこんな形をしているのだろうと思ったら、陸軍造兵廠東京工廠(東京砲兵工廠)の敷地を型どったものとのこと。
確かに古い地図を見るとこの形になっていた。
他に、陸軍造兵廠東京工廠で使用されいた小銃用弾丸製造機の部品らしいものが置かれていたようなのだだが、知らなかったので、折角入園したのに、探しもしなかったのが、悔やまれる。
これを発見したのをきっかけに調べてみると、戦前、東京ドームと小石川後楽園付近に陸軍兵器工場(東京砲兵工廠)があったことがわかった。
ということで、周辺でその名残を辿ってみることにした。
東京ドームシティ
ここは以前訪問したことがあった。
その時は、まだ、戦争遺産には関心がなかった。
この日(2024年5月4日)は、東京ドームシティはすごく混んでいた。
何かと思ったら、WBC・WBO・WBA・IBF世界スーパーバンタム級タイトルマッチ
井上尚弥(大橋)― ルイス・ネリ(メキシコ)が開催される日だった。
横断幕でも飾られているのかと思ったが、見つからなかったので、これでがまん。
結果を知ったのは翌日の新聞だが、1Rでダウンしたのには驚いた。
しかし、ご存じの通り、結果は6回1分22秒TKO勝ち。
これがある通りはあまり人通りがなかった。
しかし、2024年5月11日、再訪した時は結構あちこちに座っていた。
何があるんだ?
男ばかりと思いきや若い女性も結構いた。
大混雑。
いまや東京ドームシティは様々なイベント会場になっていた。
そこに異質とも思えるものがあった。
旧日本帝国陸軍東京砲兵工廠跡の基礎用レンガ
明治4年(1871年)に建設された旧日本帝国陸軍東京砲兵工廟跡の基礎用レンガ。
昭和12年(1937年)、旧後楽園球場建設の際は、基礎のあまりの強固さにグランド部分は取り除くのを見合わせていたが、平成12年(2000年)竣工の東京ドームホテル建設を進めるにあたり、地下5mの深さより出土、採取。
現在地は旧後楽園球場のセンター位置に当たる。
鎮魂の碑 (撮影日 2025年3月11日)
有志各位の協力を得て、1981年4月に旧後楽園球場脇に建立された。1988年3月に東京ドームの完成にともない現在の場所に移設された。
新潟県秋山郷の見玉石を使い、「鎮魂の碑」の揮毫は当時の下田武三コミッショナー。碑は2基あり、1基目には戦死した選手、2基目には特攻隊員として戦死した名古屋軍の石丸進一の実兄・藤吉氏による遺族代表の「追憶」と題した追悼文セ・リーグ会長だった鈴木龍二の建立趣旨文。
追憶
弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。 召集(しょうしゅう)は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。
二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。
よし、ストライク10本
そこで、ボールとグラブと”敢闘”と書いた鉢巻を友の手に託して機上の人となった。
愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。
野球がやれたことは幸福であった。
忠と孝を貫いた一生であった。
二十四歳で死んでも悔いはない。
ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。
真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には、生もなく死もなかった。
遺族代表 石丸藤吉
第二次世界大戦に出陣し、プ
ロ野球の未来に永遠の夢を託
しつゝ、戦塵に散華した選手
諸君の霊を慰めるためわれら
有志あいはかりてこれを建つ
有志代表
鈴木龍二
この碑の建設にあたり
協力したる有志の人々
池田恒雄(ベースボール・マガジン社社長)
石丸藤吉(親和交通社長)
下田武三(日本野球組織コミッショナー)
鈴木龍二(セントラル・リーグ会長)
角屋久次(新潟県県会議員)
保坂 誠(後楽園スタヂアム社長)
昭和五十六年四月
錦秋稲荷(撮影日 2025年4月26日)
以前探したことがあるのだが、見つからず、再度事前調査して行く。
案内図には載っていない。
現在地付近に鎮座していた。
錦秋稲荷縁起
稲荷信仰は遠く和銅年間(聖武天皇の御代)に発し五穀豊穣・商売繁昌の信仰として今日まで栄えて来ましたのは衆知の通りであります。豊臣秀吉がこの稲荷信仰を庶民の信仰としてすすめたのに反し、徳川家康はこれに反対、ために一時稲荷信仰は下火になったのです。然し乍ら家康が病に臥れるや、家光が病気回癒のため稲荷信仰を熱心にすすめたため、再び稲荷信仰が盛んになったと伝えられております。錦秋稲荷はこうした歴史的背景のもと三代将軍家光が徳川光圀の小石川宅に寄進したものと伝えられ、明治維新になり水戸家が砲兵工廠になってからでも廠内に奉置されて参りました。当時の砲兵工廠は正門、諏訪門、稲荷門の三門があり、うち稲荷門は錦秋稲荷奉置の故から取られたと言われております。また錦秋稲荷は別名「しいの木稲荷」と言われましたが、それは錦秋稲荷を祭るうしろに「しいの木」があったためこのような愛称とも申すべき名が世に伝ったわけであります。昭和十年砲兵工廠小倉移転のあとも小石川区裁判所がこの錦秋稲荷を奉置して参りました。第二次大戦のため区裁判所が焼失し、戦後文京区役所 講道館が建設され 錦秋稲荷は講道館前の道路際に安置されました。たまたま放射九号線の工事からこの錦秋稲荷も安置場所に困りましたが、後楽園スタヂアムの好意により、同社敷地の一部に奉置されることになりましたことは、思うに徳川家光時代の稲荷信仰隆盛の期に還り錦秋稲荷安置繁栄の時を迎えたものと地元住民等しく喜こんでいる次第であります(田代喜一郎撰文)
昭和五十四年初午
錦秋稲荷社
錦秋稲荷講
礫川公園
春日局像があるはずなのだが?
見つからない。
帰りに麟祥院前ポケットパークに移設されていた春日局像に出会う。
そういうば、いつからかここにあったね。
陸軍砲兵工科学校跡・陸軍工科学校跡・諸工伝習所跡記念碑


工華会の中に記念碑設立委員会を設置してこれを建つ
ここは近代陸軍技術教育発祥の地である
明治5年7月15日政府は佛国砲兵大尉ジョルジュ・ルボン氏を招聘しここに諸工伝習所を創立してから第二次世界大戦終結までその名は陸軍砲兵工科学校陸軍工科学校陸軍兵器学校とかわったが73年間たゆることなく陸軍技術の教育が続けられた
本年は諸工伝習所創立百周年に当るのでその教育を受けた有志がここに碑を建てて先達の歩みに思いをいたすものである
昭和47年7月15日
諸工伝習所跡記念碑建設委員会
委員長 武原 利三郎
副委員長 岩淵 正雄
副委員長 君田 要
委員 竜 年光
委員 野田 輝美
東京砲兵工廠射撃場跡
礫川公園の噴水の先に見える林の中にあるそうだ。
「植込みの中に入らないでください。」の看板があった。
入れないのかあ~。
植込の中に獣道ならぬ道が続いているので、行けそうなんだけどなあ。
写真を撮っている方がいるので、以前は入れたのかもしれない。
仕方ない、見えそうなところから撮ってみよう。
階段の下から、途中から、上から、煉瓦が見えるところを撮ってみた。
下から
途中から
上から
煉瓦の一部が見えだけだった。
都内ではあまり残っていないと思われる施設なので、整備して、遠くからでもいいから見られるようにすればいいと思うのだが。
小石川税務署の煉瓦構造物
「東京砲兵工廠」の遺構と思われる煉瓦が駐車場の奥にあるらしい。
時期的に遅かったかなあ。
草が邪魔だあ。
煉瓦が少し顔を覗いていた。
アーチ状の遺構があったようで、中央大学小石川キャンパスの新築工事で、中央大側(左の壁)の遺構が失われてしまったようだ。
今度は草が枯れた頃に来てみよう。
2025年3月11日再訪
草が枯れ、整備されていた。
アーチ状になっているのが確認できる。
どこまで続いているのだろう?
牛坂の煉瓦
前回通ったのに見逃してしまった。
北野神社の鳥居に一礼し、通り過ぎる。
牛坂
右側の草むらの中にあった。
全然見えなかったので、草を除ける。
右の方へは続いていないようだが、左の方は続いている感じだが、草が邪魔で確認できない。
牛坂
春日一丁目5 北野神社北側
北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蠣殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。
牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来といわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)
「江戸志」には、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、楼末につないでなぎを待つ。その間、夢に管神(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、 ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれである。と記されている。
北野神社の駐車場の煉瓦
牛坂から北野神社の敷地に入ると、左手に駐車場がある。
擁壁の表面はコンクリートが塗られているが、それが所々剥がれて、煉瓦が見えている。
常泉院の煉瓦塀
かつての立派な山門の写真が飾られていた。
以前はこちら側も煉瓦塀だったようだ。
常泉院縁起(案内)
山 号 金剛山
本 尊 両部大日如来像
開 基 卓圍法印 江戸時代初期(一六二七年以前)
宗 派 真言宗 豊山派
総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖 師 開 祖 弘法大師(空海)七七四~八三五年
中興の祖 興教大師(覚鑁)一〇九五~一一四三年
開 宗 真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって中国からもたらされ、わが国で開宗されました。
教 え 大日如来を中心とした即身成仏・曼荼羅思想です。
札 所 「弘法大師御府内(江戸・東京八十八ヶ所霊場」の第八十六番巡拝處
読誦経典 ヲン アボキャ ベイロシャナウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン
ご宝号 南無大師遍照金剛
行 事 護摩法要(一月一日)
お彼岸法要(春・秋)
大施餓鬼會法要(七月十日)
當山中興の日(七月二十四日)先妣命日
脇 堂 大聖歓喜天堂 増福利益広大也
墓 誌 相政(山中政五郎) 江戸末・明治初の侠客
六代目朝寝坊夢楽 明治の落語家
林田春潮 明治・大正期の文学者
小島鳥水 日本近代登山の先駆者