以前下記の記事で「小田原町」に触れたことがある。
それで以前確認しに行ったことがあるものが今どうなっているのか気になり、
2023年3月4日、旧小田原町の痕跡の状況を確認しに築地を訪問した。
以前発見した痕跡はすべて無事だったが、気がかりなこともあった。
①中央區小田原町一丁目三番地七
発見日 2019年12月7日
②京橋區小田原町二丁目一番地三
発見日 2019年10月28日
③オダワラ1-23
発見日 2022年5月25日
再訪日 2023年3月4日
以前訪問した時と違う姿になっていた。
電力プレートが設置されている銅板葺きの看板建築は緑色の網でおおわれていた。
たまにこのように網でおおわれている建物を見かけることがある。
④オダワラ2-15
発見日 2021年5月29日
③と④は同じ「オダワラ」でも色が違う。
それ以外は違いがないように見える。
何か意味があるのかもしれないが、まだ疑問は解決できていない。
江戸時代の地図では「南小田原町」になっている。
歴史
江戸期には現在の築地六丁目の一部に南小田原町一・二丁目があった。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)
武家地を収公して南小田原町三丁目を起立。
1872(明治5)年
南小田原町四丁目を起立。
1932(昭和7)年
帝都復興計画の一環により、南小田原町一丁目は南小田原町二丁目の一部と合併して小田原町三丁目に、南小田原町二丁目は南飯田町の一部と上柳原町、南本郷町と合併して小田原町二・三丁目に、南小田原町三丁目は南小田原町四丁目の一部と南飯田町の一部と合併して小田原町一丁目に編入となり、南小田原町は消滅。
1966(昭和41)年7月1日
住居表示の実施により、小田原町一~三丁目は、築地六・七丁目に編入となり、小田原町消滅。
地名の由来(中央区ホームページより)
慶長年間(1596年から1614年)、江戸城増築の時、相模国小田原から善右衛門という石工が来て、この河岸を石揚場としたのにちなんで町名となったという説と、相州小田原の魚商が、幕府に請うてこの地を開いたためという説があります。
小田原町の痕跡はまだないかと探してみた。
築地警察署 小田原町交番
晴海通りの三原橋交差点から勝鬨橋までの中間地点に位置する小田原町交番は、この付近の古い地名をとって「小田原町交番」と名づけられた。
所在地 中央区築地6丁目1番11号
築地魚河岸 小田原橋棟
近くにあった建物に残念なお知らせ(解体工事)が貼ってあった。