歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 浦和市太田窪大在家

気が付けば今回は記念すべき200記事目だった。

その記念すべきこの記事のため、本日再取材してきた。

 

何回か探索し、ようやく見つけることができた。

車で日の出通り(田島大牧線)を走っていたら、交差点手前の富士見坂の標識辺りから少し渋滞していた。

 

日の出通りの標識

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富士見坂の標識

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ふと右を見ると袋小路の道があり、突き当りの家の門に表札が見えた。
ここ探索したか?と自問自答。
車が動き出したので、産業道路を越えた少し先のセブンイレブンに車を止めて、確認しに行った。

あった!

消滅したのかと思い、もうさすがにあきらめていた。
太田窪2丁目は、路地を含めてすべて探索し尽くしていたと思っていた。
なぜかここだけエアポケット、盲点のように探索が漏れていたのだった。
日の出通りは拡張工事中で、通りの両側には鉄パイプの柵のようなものが立っている。
その間の袋小路を見逃していたのだ。

 

工事中の日の出通り 富士見坂から浦和駅方面を望む

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都市計画道路3・3・16田島大牧線の説明図

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発見日  2021年6月27日

発見場所 埼玉県さいたま市南区太田窪2丁目

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「太田窪」は「だいたくぼ」、「大在家」は「おおざいけ」と読む。

 

歴史

もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡木崎領に属する太田窪村、古くは戦国期より見出せる足立郡のうちの大多窪であった。太田窪は古くは大田窪、大多窪とも書かれた。

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行(明治の大合併)に伴い、大谷場村、太田窪村、大谷口村、広ヶ谷戸村、円正寺村、原山新田が合併し、谷田村が成立。谷田村の大字太田窪となる。

1932年(昭和7年)4月1日
谷田村は同郡木崎村と共に浦和町へ編入され、浦和町の大字となる。

1934年(昭和9年)2月11日
浦和町が市制を施行し、浦和市となり、浦和市の大字となる。

1954年(昭和29年)1月1日
浦和市大字太田窪、大字本太、大字大谷場の各一部より前地町一丁目から三丁目が設置される。

1967年(昭和42年)9月1日
大字太田窪、大字原山新田、大字大谷口、大字大谷場の各一部から太田窪一丁目〜五丁目が成立した。同時に原山一・二丁目と駒場二丁目が大字太田窪の一部から成立。

2001年(平成13年)5月1日
浦和市与野市、大宮市と合併しさいたま市となり、さいたま市の町名となる。

2003年(平成15年)4月1日
さいたま市政令指定都市に移行。区制を敷く際、一丁目と三丁目が緑区に、二・四・五丁目・大字太田窪が南区となった。

 

太田窪の地名の由来(「さいたま市 地名の由来」参照)

文政十一年(1828年)に成立した編さん物である「新編武蔵風土記」までは大田窪村であったが、明治初期に編さんされた「武蔵国郡村誌」には「太田窪村」と大の中に点があり太になるが、その説明に「天保八年皆済目録に誤りて太田窪と書きせし因習して太の字を用ちふ」とあり、代官が皆済目録に村名を書く際、書き誤り、それ以降太田窪と村名が変わって現在に至るまで地名が訂正されることなく使用されている。 

ダイタクボの語源はダイダラボッチと呼ばれる巨人伝説にまつわる地名とされ、池や窪みの地形はダイダラボッチの足跡であると云われている 。

同じ南区にある“白幡沼”は、かつて「拳ヶ池(こぶしがいけ)」と呼ばれており、雨の日に巨人が足を滑らせて転び、拳をついた所が凹んで出来た沼、と言われている。

東京都世田谷区の代田(だいた)も同様の由来を持つ。

 

大在家の地名の由来(「さいたま市 地名の由来」参照)
在家は本来出家と対になる言葉であるが、中世、荘園内の屋敷と付属の田畑を指す。

桜区大久保地区に在家という大字がある。
緑区に「坊の在家(ぼうのざいけ)」というバス停がある。
北区土呂に在家、下在家がある。
奈良瀬戸村(北区奈良町)に小在家があった。
西谷村(北区日清町)には坊在家があった。
中央区大戸に亀在家があった。
浦和区本太には番場在家があった。
川口市には在家中学校がある。

 

大在家の名前は国際興業バスのバス停、大在家八雲社、大在家地蔵堂墓地、自治会などに残っている。

 

大在家八雲社の由緒(「猫の足あと」さんホームページより)

大在家八雲社は、疫病が流行したことから、牛頭天王を勧請して天保12年(1814)に創建したそうです。明治時代の神社整理時期等については不詳ながら、太田窪氷川神社では「昭和二十年代に旧原山村が氏子を離れ、(中略)字太田窪・太田窪二・四・五丁目・大字円正寺となる。」としていることから、当地区が遅くとも昭和20年代後半には太田窪氷川神社の氏子から離脱していることが確認できます。昭和51年4月に「大在家八雲社」として宗教法人登記されています。社号の「大在家」は、江戸時代の「大田窪村」の小字「大在家」に因んだものと思われます。

 

八雲社の入口にある看板

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八雲社f:id:citywalk2020:20211219135107j:plain

 

お焚き上げと初詣

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八雲社の狛犬

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大在家地蔵堂墓地

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他に大在家が付く現存している地名があるか調べてみたところ、下記が見つかった。
すべて東北地方だった。

青森県三戸郡南部町苫米地大在家
宮城県角田市岡字大在家内
宮城県角田市横倉大在家
宮城県石巻市前谷地大在家山
福島県喜多方市塩川町小府根大在家(福島県喜多方市塩川町大在家)
福島県耶麻郡猪苗代町長田大在家

 

ダイダラボッチ

日本の各地で伝承される巨人。類似の名称が数多く存在するが、山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられている

名称
「でいだらぼっち」、「ダイランボウ」、「だいだらぼう」、「でいらんぼう」、「だいらぼう」、「デエダラボッチ」、「デイラボッチ」、「デイラボッチャ」、「デーラボッチャ」、「デエラボッチ」、「デーラボッチ」、「タイタンボウ」、「デエデエボウ」、「デイデンボメ」、「ダイトウボウシ」、「レイラボッチ」、「ダダ星」、「おおきいぼちゃぼちゃ」。 等様々な呼び名がある。大太法師(だいだらぼっち)、大太郎坊(だいだらぼう)とも表記し、九州では大人弥五郎(おおひとやごろう)と呼ばれる。