歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 足立区蒲原町

蒲原町は古地図で調べてみると東和3丁目あたりにあるのではないかと思い、ストリートビューで事前調査をするが、見つからず、東和4丁目も探してみるが見つからなかった。
ということで、現地で探索することにした。

東和3丁目を全域探索するが、見つからなかったので、見落としたかと思ったが、東和4丁目に入ると、すぐ見つかった。

探していたものが見つかると素直にうれしくなる。
すぐ見つかることもあるが、あきらめかけてきたところで、見つかることも多い。
このようにようやく見つかったりするとなおさらうれしくなる。
よく残っていてくれていたと愛おしくさえなる。

 

発見日  2022年2月5日

発見場所 東京都足立区東和4丁目

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「蒲原」は何と読む?

「かまはら」?「かんばら」?

「かばら」だ。

難しい字ではないが、知らないと「かまはら」と読んでしまいそうだ。

 

足立区ホームページより

現在の東和一・三丁目は、江戸時代初期に新田開発が進み、「蒲原新田」と称されていました。「蒲原」とは、低湿地帯や沼沢地で蒲(がま)が繁茂していたことから呼ばれた名です。

 

歴史
1889年(明治22年)5月1日
東渕江村成立により、大字蒲原となる。

1932年(昭和7年)10月1日
足立区成立により、足立区蒲原町となる。

1960年(昭和35年
北三谷町・蒲原町・大谷田町・大谷田新町・東谷中町の各一部を合わせた地域が蒲原北三谷土地区画整理事業により区画整理された。
一部が蒲原町1 - 3丁目(住居表示未実施)となる。

公園に整備記念碑が建てられている。

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由来記
地区内には一間乃至二間の道が数条ある農耕地であったが、日立製作所が青年学校敷地を買収し建築に着手するに及び道路の必要と市街地を予想し健全なる住宅地を造成せんと有志発起人となり、本事業に着手。今日の姿を見る。今昔の感夢の如し

1965年(昭和40年)
1 - 3丁目の区域も含め、現在の東和の一部となる。

 

東和の地名の由来
初め「蒲原(かばら)」となることが有力だったが他町の猛烈な反対があり、かつてこの辺りが東淵江村だったことに鑑み、その東を採って「あづま」としようとしたが区から「すでに千住東がある」と指摘され、やむなく「東淵江村の町々の和を祈念する」などと苦肉の策で「東和」をしぼり出した。

 

自治会、通り名、中学校などに「蒲原」の旧地名が残っている。

自治

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「蒲谷」は「蒲原」の「蒲」と「北三谷」の「谷」を組み合わせた自治会名と思われる。

 

蒲原通り

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起点 東和五丁目8番
終点 東和二丁目12番

 

蒲原中学校

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1957年(昭和32年)創立

【通学区域】
・東和一丁目全域
・東和二丁目全域
・東和三丁目全域
・東和四丁目全域
・東和五丁目全域
・東綾瀬二丁目5番から13番、17番から最後まで
・東綾瀬三丁目全域
・谷中一丁目全域
・谷中二丁目6番から最後まで

 

蒲原村宿駅伝説

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 寛政6年(1794)出版の「四神地名録」に、「この土地の人の言い伝えに、古隅田川の北に添った蒲原村は、むかしの駅で今も宿という地名が残っている。在原業平東下りした時『名にしおばいざこととはん都鳥我思ふ人は有りやなしや』と詠んだのはこの辺りではないか、今、隅田川と称している地は二百四~五十年以前は海だったから川があるはずがないという。」とある。 
 その他の地誌にも、蒲原が古い駅路の宿だったかどうかを記しているものが多い。このため、治承4年(1180)源氏の再起を賭けて伊豆に挙兵、敗れて安房国に逃れた頼朝が、再び鎌倉をめざして下総国から武蔵国に入った時、蒲原村に宿陣したという説が地元に根強く伝わっている。