歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

種子屋(たねや)街道

今日は曇りで暑くなく、探索日和だった。

中山道沿い、明治通りとの交差点近くに株式会社日本農林社があり、<種子屋街道のあゆみ 滝野川三軒家の町並み 日本農林社のあゆみ>の紹介・案内板が設置されていた。

以前探索した時にはなかったので、最近設置されたものだろうと思っていたら、2022年3月と今年のことだった。

 

発見日  2022年8月4日

発見場所 東京都北区滝野川六丁目6-5

     豊島区西巣鴨三丁目20-1他

 

 

滝野川三軒家の町並み

滝野川三軒家とは、中山道の種子屋の草分的な存在である榎本孫八・越部半右衛門・榎本重左衛門の三軒に由来し、後にこの地域(現在の滝野川6丁目)の地名ともなりました。種子屋は、初め農家の副業として付近の畑で採種した野菜の種子などを販売していましたが、明治以降に規模を拡大し、全国の良質な種子を集めて販売する卸売業者へと成長します。滝野川は日本有数の種子の集散地となり、大正時代には約20店の種子屋がありました。
右の町並図は、滝野川カメラ店を経営していた榎本眞一氏が制作したものです。2003年頃の建物の写真を交えながら、かつての「種子屋通り」の面影が再現されています。 榎本眞一氏制作

 

ようこそ瀧野川三軒家へ
 瀧野川三軒家(東京都北区滝野川6丁目)付近は、大正大震災・第2次世界大戦の空襲にも難を逃れ、古き良き時代の建物も俗く見受けられましたが、近年これも建て替えにより、年々少なくなっています。江戸時代より、中山道と、千川上水に囲まれた土地は、種苗屋問屋を営む家も多く在り、「瀧野川牛蒡・ゴボウ」「瀧野川人参・ニンジン」の種苗などで、豊島区巣鴨より北区滝野川三軒家と板橋区清水町に続く、有名な種苗屋街道でした。

①JR板橋駅赤羽線」(板橋1-15-1) 
 明治18年(1886)3月1日開業
 品川・赤羽間「山手線」の駅として、当初は仲宿寄りに計画されましたが、宿場町の反対で現在地に建設されました。板橋区・西口改札・駅長室、北区・東口改札、豊島区・ホーム南側と、3区に跨ります。昭和61年(1986)埼京線乗り入れ、平成14年(2002)りんかい線乗り入れ。
新撰組隊士供養塔(滝野川7-8-10)  
 新撰組隊長・近藤勇は、慶応4年・明治元(1868)4月25日に、板橋の一里塚にて処刑され、首は、首改めの為に京都に運ばれ、胴体のみが葬られていました。墓碑は、近藤勇土方歳三のほか殉死した隊士の供養の為、明治9年(1876)永倉新八・松本順により、当地に建てられました。のち、近藤勇は遺族により、三鷹・龍源寺に葬られています。
③ 平尾一里塚(現・あづまや) (板橋1-54-1)
 日本橋より2つ目、明治期まで平尾宿に在りましたが、現在は仲宿寄りに『平尾交番』として、名を残しています。板橋宿は、江戸四宿の一つに数えられ、一里塚より国道17号までを平尾宿、国道17号より環状7号までを仲宿、環状7号より清水町までを上宿、三宿を「板橋宿」と呼びました。
馬頭観音滝野川6-62-11)
明治時代中山道の旅人の道中安全祈願と荷役に使われた、馬に感謝と供養を込め、建立されました。
⑤ 瀧野川種苗 (滝野川6-61-14) 
 創業・明治5年(1872)岩田與四郎商店と発足し、種苗・肥料・園芸資材の販売造園土木等を営んでいます。
⑥ 藤井 邸(滝野川6-55-5) 
 大正13年(1924)築、昭和21年頃まで自転車屋を営んでいました。

 滝野川6-33-17 
 榎本米吉
⑧ 桝 屋・榎本 邸(滝野川6-31-16)
 明治20年代 築、創業1700年代末、桝屋孫八 瀧野川三軒家、大正9年(1920)日本最大の種会社・帝國種苗株式会社設立に参加する。(5社合併)
⑨ 岩田園(滝野川6-14-9) 
 嘉永2年(1849)初代岩田嘉右衛門により、茶の栽培・製造を始めました。昭和22年〈1948〉埼玉県入間市に茶園と製造工場を移転し創業以来の製茶技術を伝承して販売しています。
 http://www.iwataen.com/
亀の子束子・西尾商店 滝野川6-14-8
   大正12年(1923)築、明治40年(1907)初代西尾正左衛門により、本郷真砂町にて、 亀の子束子を発明・発売する。明治42年(1909)滝野川工場を設置し拡販する。昭和23年(1948)株式会社亀の子束子西尾商店と改名いたしました。http://www.kamenoko-tawashi.co.jp/
⑪ 岩田 邸(滝野川6-13-5) 
      年(1    )築、岩田六三郎
⑫ 榎本 邸(滝野川6-11-17) 
 大正初期の建築、瀬戸物店を営んでいました
⑬ 日本農林社(滝野川6-6-5) 
 創業・嘉永五年(1852)、初代・鈴木政五郎により丸政鈴木政五郎商店として創業し合資会社大日本農園をへて日本農林種苗株式会社に引き継がれ、滝野川茨城県で自社開発種苗の育成と国内外に卸販売をしています。 http://www.norin.co.jp/
⑭ 旧霞ヶ関信用組合滝野川6-8-6)
  昭和3年(1928)築、川崎第百銀行瀧野川出張所として建築され・霞ヶ関信用組合三菱銀行と、昭和60年(1985)まで使用され、平成16年(2004)3月解体されました。
千川上水分配堰の碑 (滝野川6-9-2)
 明治15年(1879)建、元禄9年(1696)保谷市玉川上水から分水され、練馬区・豊島区・板橋区・北区・文京区を流れていました。初期は小石川・白山・湯島聖堂の飲料と近隣の灌漑用水に、幕末は滝野川・大砲鋳造用に、明治は王子・製紙工場へ、使用されましが、昭和12年(1937)暗渠化されました。
⑯ 東京種苗 (西巣鴨3-19-2) 
創業 弘化元年(1844)
千川上水  調節池跡

 

※谷端の牧場 現在都営滝野川アパート(滝野川7-49)
※谷端の水車 谷端川を利用した加藤家の水車小屋、昭和  年(19  )頃まで挽いていました 
※谷端小学校 牧場の跡・昭和11年(1936)4月東京市瀧野川町谷端尋常小学校として開校、昭和17年(1922)児童が掘って造ったプール(滝野川7-12-17)
  http://www.kita-tky.ed.jp/es43/43es.htm
滝野川第二小学校 明治34年(1901)12月6日東京府北豊島郡滝野川村立滝野川尋常高等小学校滝野川分教所として開校する。(滝野川6-19-4)
   http://www.kita-tky.ed.jp/es36/blog/
国道17号 昭和13年(1938)中山道のバイパスとして開通
       昭和4年(1929)都電開通下板橋迄  
       昭和41年(1966)都電廃止  
       昭和43年(1968)都営三田線開通
        平成14年(2002)12月高速開通
板橋駅東口 昭和28年(1953)谷端復興区画整理事業の一環により東口完成
※堀割 慶応元年(1864)徳川幕府滝野川に造った反射炉運用に、千川上水を王子方面に分水する 為に、堀割を造った事に由来します。
※バス 
 大正 8 年(1919)志村・巣鴨間 
 大正12年(1923)万世橋・板橋間〈市バス〉滝野川銀座バス停萬歳館角  
 昭和期巣鴨・板橋  
 昭和30年代大塚・板橋〈東都バス〉
 昭和40年代東京駅丸の内・板橋経由上板橋〈国際バス〉板橋駅東口・市場通り信号脇

 

※種苗屋街道の碑(豊島区巣鴨 3- 21 -21)
  巣鴨・真性寺・江戸六地蔵(JA東京グループ農業協同組合法施50周年記念事業)
※瀧野川人参・牛蒡の碑(北区滝野川 6- 21 -25)
  北区滝野川西区民センター(JA東京グループ農業協同組合法施50周年記念事業)
※北区立紅葉中学校 昭和22年設立、生徒会の皆さんが「滝野川ゴボウ・ニンジン」の栽培しています。http://www.kita-tky.ed.jp/jh68/ (滝野川5-55-8)
明治通り 昭和 8 年(1933)環状5号開通、昭和32年から昭和42年まで池袋・浅草・亀戸・今井にトロリーバスが走っていました。
※鎌倉橋 滝野川7丁目と上池袋4丁目間に流れていた谷端川に、架かっていた鎌倉街道の橋(近年までバス停に、名が有りました)
※瀧野川三軒家 いちます 桝屋孫八、かねと 榎本重左エ門、○浅[まるあさ]越部半右エ門
※森林プール 私営のプール・現在の滝野川第六小学校・紅葉中学校付近
※萬歳館・映画館 昭和 6 年(1931) 1 月30日開館瀧野川東映
         昭和45年(1970)閉館 支配人 松本紋太郎氏 (滝野川6-36)
※弁天座・映画館 昭和27年(1952)三角寛氏により開館
           昭和44年(1969)頃閉館 (滝野川6-84) 
正一位重吉稲荷神社 都立池袋商業以前の紡績工場建設時、敷地内から17号国道路沿いに移転しましたが、高速道路建設拡張に伴い再度移転しました。
きつね塚通り縁日 昭和45年(1967) 頃迄続いた、重吉稲荷神社の縁日開催 10日・20日・30日(平成15年現在きつね塚商店会・土曜縁日を開催) 
※狐塚跡 東京消防庁滝野川消防署三軒家出張所の敷地、厄よけと火伏せの神として、正一位伏見稲荷神社を祀ています。(滝野川5-39-3)
※瀧野川八幡神社 
  品陀和気命を御祭神と祀る。創建・由緒等不明、昭和20年頃迄社務所にて、種苗の競り市が開かれていました。(滝野川5-26-15)
※瀧野川囃子 幕末より伝承される祭り囃子、押下戸・谷津・三軒家に広まりましたが、現在は上町親 和会(三軒家)のみに伝承されています。

 

日本農林社のあゆみ

日本農林社は、嘉永5年(1852)年に丸政・鈴木政五郎商店として創業しました。同商店は、この地域の特産品であったダイコン・ニンジン・ゴボウなどの種子を、中山道を往来する人々へ販売していました。明治に入り、鉄道などの新しい交通手段やカタログなどの通信販売を活用して、日本全国の種子を集めて販売したほか、西洋野菜の種子も積極的に取り扱うなど、次第に事業を拡大していき、後に社名を大日本農園と改めます。
第二次世界大戦中は日本農林種苗として種子の販売等を行っていましたが、戦後に解散、昭和27年(1952)年に日本農林社として再発足し、現在に至ります。以降、F1品種の開発に取り組む一方、伝統的な東京野菜の継承も行っています。

 

上段・中段:鈴木政五郎商店の種子カタログ
 明治34年(1901)年 茨城県立歴史館「平井幸夫家文書」
下段:日本農林社が発行していた種子カタログ
 昭和31~34(1956~59)年
 豊島区郷土資料館「榎本泰吉家文書」

 

種子屋街道のあゆみ

慶長年間(17世紀初頭)中山道が整備され、板橋宿が設置される
明暦3(1657)年 巣鴨庚申塚の庚申塔が造立される

滝野川三軒家(榎本孫八・越部半右衛門・榎本重左衛門)が種子屋を始める

弘化元 (1844)年 榎本留吉商店(のち東京種苗)が開業する
嘉永 5(1852)年 丸政・鈴木政五郎商店(現在の日本農林社)が開業する
明治18(1885)年 日本鉄道品川線(現在の埼京線)が開通し、板橋駅が設置される
明治36(1903)年 日本鉄道豊島線(現在の山手線)が開通し、巣鴨駅が設置される
明治44(1911)年 王子電気軌道(現在の東京さくらトラム)が開通し、庚申塚停車場が設置される
大正 5(1916)年 滝野川の種子屋が中心となり、東京種子同業組合が発足する
大正 9(1920)年 帝国種苗殖産株式会社(日本最大の種苗会社)が開業する
大正15(1926)年 大正大学が開校する
昭和 7(1932)年 豊島区が誕生する

 

中山道の種子屋(東屋)

種子屋とは、農作物の種子を生産し、販売する 商店のことです。江戸時代の半ば以降、この地域 に種子屋が集まるようになります。当初は、農家が 付近の畑で採種した野菜の種子を通行人等に販売していましたが、やがて品種改良や品質管理 に優れた技術を持つ農業指導者たちが専門の種子販売業を始めるようになりました。
明治・大正期には、種子屋は郊外の農家に採種を委託して経営規模を拡大する一方、鉄道や郵便などを駆使して、全国各地から優良な種子を集め販売する卸売業者となります。 大正5(1916) 年 には、中山道の種子屋が中心となって東京種子同業組合が発足し、江戸東京野菜のブランド化を図り、商品の信頼性を高めました。

 

江戸東京野菜

江戸の北郊にあたる豊島郡(後の北豊 島郡) では、それぞれの土地条件にあった個性的な野菜が生産されていました。武蔵 野台地の東端では根菜・果菜類が、荒川沿岸の低湿地では葉茎菜類が盛んに栽培され、江戸の台所を支えていました。江戸時代の中頃になると、練馬大根・滝野川人参・滝野川牛蒡などが、この地域の特産品とし て好評を博すようになります。

北豊島郡時代に栽培されていた農産物が描かれている。
瀧野川村
大根、ごぼう、にんじん、しろうり、ネギ、米、麦、植木

王子村
大根、ごぼう、しろうり、ナス、菜っ葉、米、大麦、イチゴ

岩淵町
大根、ごぼう、かぼちゃ、サツマイモ、里芋、ミツバ、米、麦、桑、お茶、藍、

 

持ち帰り自由の野菜が置いてあった。

なすとししとうをいただく。

 

日本農業を支えた種子屋街道(南門広場)

大正大学南門の前を走る道路は、江戸時代初期に建設された中山道です。 日本橋から約6kmに位置するこの地域は、江戸への 野菜の供給地として知られていました。 江戸時代半ば以降、庚申塚から板橋宿へと続くこの街道沿いに、野菜の種子を通行人等に販売する種子屋 (たねや) が店を構えるようなります。 近代に入り、農業生産が飛躍的に高まると、 種子屋は経営規模を拡大していきます。また交通・通信機関を利用 して、国内外から良質な種子を仕入れて広く販売する卸売業者へと成長します。 やがて西巣鴨滝野川には日本有数の種子屋が軒を連ね、「種子屋通り」と呼ばれるようになりました。
このように、中山道の種子屋は日本農業の発展を下支えしていました。

 

種子地蔵

大正大学南門の旧中山道に面して「種子地蔵尊」(地蔵菩薩)の石像が建立され、2022年5月14日に開眼式(かいげんしき)が行われた。

大正大学の種子地蔵は、植木鉢を持っている。それは大正大学の南門前を通る旧中山道が、かつて「種子屋通り」と呼ばれていたことに因んでいる。

種子地蔵は大正大学表現学部の榎本了壱教授のデザインによるもの。

 

種子屋街道ののぼり

 

山田屋酒店

ウヅ〇キ正宗

〇に何が入るだろうか?

考えてみよう。

こんなの気になるのは自分位かもしれない。

 

正解は「マ」で、「ウヅマキ正宗」となる。

かつて埼玉県鴻巣市にあった「玉井酒造株式会社」が醸造元だったらしい。

「武蔵野の地酒 渦巻正宗」と漢字で書かれている看板もあるそうだ。