歩・探・見・感

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愛宕山の几号水準点&三等三角点 東京都港区愛宕

愛宕隧道」(あたごずいどう)銘板

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これだけだと何だかわからない方が多いだろう。

写真は撮らなかったが、23区内唯一の山岳トンネルである。
1930年(昭和5年)竣工、2004年に内壁の耐震補強工事が行われているが、ぼぼ竣工当時の姿をとどめながら、すでに80年もの歴史を刻んでいる。
全長はわずか76.6メートル、幅は9メートル。歩道が両脇に2.5メートルずつあるので車道は4メートルしかなく、愛宕下通り側からの一方通行路になっている。

兵庫県豊岡市但東町に同じ名称の隧道があった。西野々地区と太田地区をつなぐ僅か22メートルの隧道。ほぼ同時期の1932年(昭和7年)5月竣工、こちらは現在、立入禁止になっている。

昭和期の前半ごろまでは隧道と書いていたが,当用漢字外の漢字をかな書きするようになってからはずい道と書くようになった。1970年ごろからは正式な名称として「トンネル」が使われている。
隧道の正しい読み方は「すいどう」であるが,鉄道関係者が水道とまちがえないように「ずいどう」というようになって,いつのまにか「ずいどう」が正式な読み方になったといわれている。

 

今回は西参道からアプローチした。
今回はというのは、几号水準点があるのを知る前も何度か訪れたことがあったからである。

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発見日  2022年3月19日

発見場所 東京都港区愛宕1丁目5番3号

 

土曜日だったので、参拝客が結構いた。
会釈しただけで、お参りもせず、こんなことをしていても、愛宕神社の神様は寛大だから、きっと気にしないでくれるだろう。たぶん、きっと、おそらく・・・。

 

几号水準点が彫られている「起倒流拳法碑」を見つけた。

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起倒流(きとうりゅう)とは、江戸時代初期に開かれた柔術の流派。天神真楊流とともに講道館柔道の基盤となった流派として知られる。

 

起倒流拳法碑」には以下の文章が彫られているそうだ。

李麗(2017)『陳元贇の生涯と思想』富士ゼロックス株式会社 小林基金より

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拳法が伝わったのは、日本に帰化した明国の人陳元贇から始まる。「起倒」という名称は、福野氏から出ており、寺田氏の時にできあがった。寺田氏の後、起倒流拳法は二回伝承して、滝野氏に至った。滝野氏の名は貞高、平安の人である。諸国を周遊し、ついに東都江戸に十数年留まった。彼の元で稽古した人は大変多く、一時名が諸侯の間に聞こえた。しかし、起倒流拳法の奥義を極めた人はただ二人で、比留川氏は先輩として最も知られていたがすでに晩年であった。だから、滝野氏の技芸を継承したのは、ただ有慶翁だけであった。翁の姓は加藤、名は長正、丹後の人である。師(滝野氏)に従って東(江戸)に来て、数十年間直接滝野氏から教えを受け拳法が成就した(技が出来上がった)。まさに青は藍より出でて藍より青し。その後、起倒流拳法を弘めるために、四十年間も勤めた。今に至り弟子は千余人もあり、固より弟子が足りない訳でもないが、集散(集まったり散ったりすること)は常なく、克亡(よくなったり滅んだりすること)もよくあることである。ただ今志を継承して江戸に於いて起倒流拳法を教えるのは、嗣子の長英で、ほかに事理において翁と全く同じであるのも多くないわけではない。有慶翁の門下生は、今みなその名前を石碑の裏面に記録しておいた。もし後の人は今の弟子に及ばないなら、述べて語ることは途絶えてしまう。翁の年齢はすでに70余歳、あるいは百年の後、もし西河の人が夫子を疑うかもしれないということを危惧する。だから起倒流拳法の由来を大まかに述べのて、石に刻んで江戸の円福山寺に立てて置き、後世の人にこれを証拠として取らせるということである。

弟子兎道澤元愷弟侯 撰す
東都後学源氏鱗文龍 書并び額を題す
安永八年己亥春二月丙辰朔九日甲子 建つ
松橋中慶雲刻字

 


裏側から撮ったもの
土台の左下前方に彫られている。

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①几号水準点

土を掘った跡があった。

下部に「T」の字が見える。

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拡大して撮ってみた。
まだ埋もれているようだ。
少し掘ってみてもよかったかな。

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これは「不」の字ではなく、「T」の字だ。

明治12年(1879年)の地理局雑報に、「安永八年二月ト記シタル碑ノ臺石横面T符ヲ彫ル、二六、二三六一メートル」と記録されている。

「T」の横棒の長さは6.5センチメートル、この写真ではわからないが、縦棒は細長い三角形になっているそうで、長さ7センチメートル、底辺1.5センチメートルとなっているようだ。

何故「T」なのか調べたが分からなかった。
勝手な想像だが、この場所なので、「不」の文字を彫るのは大変だったのだろうか?

 

②三等三角点

三角点(さんかくてん)とは、三角測量に用いる際に経度・緯度・標高の基準になる点のことである。

標石

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蓋を移動していいのか少し悩んだが、ネットには移動して写真を撮っている方がいたので、移動させていただいた。
思ったより重かった。

きっと、参拝客は何をしているんだろうと思ったことだろう。

 

標高25.7mを示す三等三角点

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「三等」の刻印文字があるらしいのだが、確認することはできなかった。

基準点には、電子基準点、一等三角点、二等三角点、三等三角点、四等三角点、五等三角点などがある。
2021年(令和3年)4月1日に国土地理院が公開した三等三角点の点数は31,667である。

 

③日本初の三角点
池の中にあるはずだが、鯉がたくさん泳いでいて、水も濁っていたので、どこにあるか全然わからなかった。

2022年5月10日池の写真だけ撮る。

どこにあるんだ!

 

愛宕神社

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歴史(愛宕神社ホームページより)

1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。
 慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。
その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。
 大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。

 

狛犬

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阿吽が逆配置となっている青銅狛犬

昭和八年(1933年)七月奉納 鋳金家・今村久兵衛 

 

男坂を上から見たところ。

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急階段だということが分かる。

左側に女坂がある。

男坂は86段、女坂は108段だそうだ。

少し離れているがエレベータもある。


愛宕山

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港区ホームページ「来て見て郷土資料館 第18話 愛宕山の歴史を振り返る」より

愛宕山はかつて桜田山と呼ばれていました。標高は約26m、自然に形成された23区内の山では最高峰です。1603(慶長8)年、徳川家康関ヶ原の勝利を記念して愛宕神社を山頂に勧請してから、愛宕山と呼ばれるようになったと考えられています。江戸の人々にとって愛宕山は、防火や戦勝に縁のある愛宕神社を頂く敬愛すべき山だったのです。また、折々に花見月見雪見を楽しみ、武家屋敷が連なる江戸のまち並みを眺望できる景観のすばらしい場所でもありました。

1889(明治22)年には、5階建て30mの愛宕塔や愛宕館が山頂に建てられ、江戸から明治に移り変わった風景を楽しむ人で賑わいました。1923(大正12)年の関東大震災ののちは、愛宕館跡地に日本放送協会の前身の一つである東京放送局が建てられ、1925(大正14)年に国内初のラジオ放送がここから開始されました。

現在の愛宕山は、かつての眺望を失ってしまいましたが、自然の残る場所として都心で働く人々の憩いの場となっています

 

花手水鉢かな?

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境内にいた眠そうな猫

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顔出しパネル

左 西郷隆盛勝海舟

右 愛宕神社 出世の階段

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この地は江戸時代のおわりに勝海舟西郷隆盛を誘い、ここで江戸のまちを見回しながら江戸城無血開城へと導いたという歴史がある。
腕組みをした西郷隆盛と、勝海舟が仲良く顔はめパネルになっている。

愛宕神社の前には「出世の石段」と呼ばれる長くて角度のある階段がある。
この出世の石段をその昔、曲垣平九郎という人物が馬で登りきったというエピソードがあるのだが、この顔はめパネルではその話を再現している。

 

愛宕の町名存続達成記念

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「出世の石段」の脇にある。
江戸を代表する景勝地であった愛宕山がある場所だが、昭和になって周辺地域の住居表示変更に伴い「愛宕」という地名が消えかかり、周辺住民の猛烈な反対運動でかろうじて存続が決まったということがあったようだ。

 

神社前に埋蔵文化財の発掘調査の案内があった。

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ここに圓福寺跡遺跡があるようで、現在、調査が行われている。
圓福寺跡遺跡は、時代は近世、種別は社寺、主な遺構/概要は「杭列、土坑、礎石建物等」、主な出土品は「近世の陶磁器、瓦等」と記載されているそうだ。
圓福寺は1610年(慶長15年)の創建。明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった。

この場所は「(仮称)愛宕地区第一種市街地再開発事業」となっており、愛宕神社の出世の石段を挟む場所が計画地となっている。そのうち手前がF地区で地上43階、地下2階、高さ約160m、延床面積約55,000㎡のタワーマンション、その後ろがG地区で地上3階、高さ約15mの店舗と寺院が計画されている。

同再開発は2024年度着工、2031年度竣工予定と7年もの工期となっている。

愛宕山は標高25.7m、それより何倍も高い見上げるようなマンションができる予定だ。

まだ少し先だが、愛宕神社から見える景色が大幅に変わってしまうだろう。

 

地図

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